『与那原の綱曳』について(後編)

上原正巳館長(綱武士)に映像を見ていただく

というわけで、前編に引き続き、与那原の大綱曳きのお話。

屋冨祖正弘さんの『与那原町の綱曳』の年代を特定するために、我々は与那原町立綱曳資料館に上原正巳館長を訪ねた。ちなみに公式サイトの上原さんの肩書きは《館長・綱武士(つなむし)》である。綱武士(つなむし)とは、もともとは綱虫だと思われる。大綱引きに身も心も捧げたような人々のことだ。似たような話を、博多山笠の時も聞いたことがある。祭のために生きているような人々で、祭りが来るとなるとテンションがドンドン上がっていく。終わったら数日はマブイを落としたようになるらしい。

背後の丘陵に「テック」が…

そんな館長にまずは映像を見ていただいた。しばし画面を食い入るように見ていた館長は、突然「テックじゃないか?ああ、これはテックだね」と声を上げる。察しの良い方ならお気づきだろう。「テック」とは与那原にあった遊園地「与那原テック」のことだ。すでになくなって久しいが、海洋博のエキスポランドができるまでは子供たちの憧れの遊園地で、今でも語りぐさの行楽地。与那原の人は、いちいち「与那原」と付けずに”テック”と表現するというのを知ったのが、この日の最初の収穫だった。

確かに映像を見ると、綱曳の大観衆の奥に見える丘陵地に、うっすらとレールのようなものが見えるカ所がある。まさに地元民でなければ目がいく場所ではない。これだから現地リサーチは楽しい。
その与那原テックができたのは1966年。つまり映像は1966年から、復帰の1972年の間と絞り込める。
浦島太郎の前に立つもう一人の主役

続いて館長が注目したポイントは支度であった。与那原の支度は毎年演目を変える。つまりその演目を付き合わせれば簡単に撮影年が割り出せると言うのである。

浦島太郎が支度に登場したのは1953年、1960年、1968年、1970年、1980年、1989年、1995年、2001年、2010年と意外に多い。前述の1966年から1972年までの間でも二度登場している。
そこでさらにヒントがある。実は与那原綱曳は毎年二回の対戦がある。そのため支度の演目は二つ用意される。映像には浦島太郎の前に立つ武将の姿が!それはやっぱり護佐丸と阿摩和利であった。一覧表と見比べると、これはもう1970年の綱曳しかない。と、言うことで無事に年代特定が終了した。
聞くところによると、仕度の演目は当日まで発表されないらしい。これはもう前座でもなんでもなく、一つの立派なプログラムであろう。この疑問に対して上原館長が答えてくれた。
仕度表(クリックで拡大)

実は与那原町の大綱曳の仕度には、沖縄芝居の重鎮、伊良波尹吉が関わっていたのだ。伊良波尹吉は、与那原町出身の沖縄芝居の重鎮。大正時代から戦後まで活躍し、多くの歌劇、舞踊、そして琉球史劇を残した。また終戦直後には沖繩民政府直営の劇団「梅組」の座長を負かされ、戦後復興の中に文化の光を灯した功績もあり、1951年に亡くなられている。

もともとの綱曳き”仕度”という物がどうであったのか?はたまた他の地域の綱曳きが現在どうなのか?というのは現時点ではわからない。であるが、少なくとも与那原町の”仕度”が形骸化せずに、観衆を楽しませる本物のエンターテインメントとしての文化を伝え続けている背景に、このような大物役者が関わっていたという事実を知って、その本物度というか、気合いを感じた。
失敗なのは、手元にある”仕度”の表を見る限り、伊良波尹吉が亡くなった1951年からの演目しか載っていない。これはつまり、伊良波尹吉が深く関わったのが戦前のことなのだと思うのだが、そこまで気持ちが回らず、突っ込めなかったことだ。今後の調査で深堀したい。
伊良波尹吉については、与那原町教育委員会が発行した、新里堅進 作・画の『沖縄歌劇の巨星・伊良波尹吉物語 奥山の牡丹』というのがあるらしいので、今度探して読んでみたい。
あと最後に8ミリ映像とは少し離れるが、仕度のこれまでの年表がおもしろい。『執心鐘入』や『二童敵討』の様な組踊りの演目や、『牛若丸と弁慶』という日本物。『孫悟空と牛魔王』『浦島太郎と乙姫』のような物語。究極は『弁務官と比が首席』といった現代物(当時)である。アメリカ人の高等弁務官(町民が扮している)までが、綱の上に立つとは驚愕。まさにエンターテインメントの血脈が流れている。
(文:真喜屋力)

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