『与那原の綱曳』について(前編)

屋冨祖正弘さんは沖縄の文化を積極的に8ミリに記録していた。8ミリカメラとはいえ、名護で写真館を経営をしていたので、決して素人ではない。残されたスチール写真を見ても、消えゆく風景を写真に残そうと、意識的に活動されていたことは伝わってくる。
その屋冨祖さんの作品『観光沖縄』は四つのパートからなっている。名護のハーリー競漕を記録した『名護の海神祭』。現在のエイサー文化を育て上げた文化イベント『エイサーコンクール』。復帰前の沖縄では娯楽の頂点とも言える大綱曳を撮影した『与那原の大綱曳』。そしてヤンバル(沖縄本島北部)の祭祀の中でも重要な『塩屋のウンジャミ』。

今年は8月20日に与那原の大綱曳が行われることもあり、一足先に沖縄テレビの『沖縄アーカイブ』のコーナーで紹介したので、その時の調査の様子を記録しておく。

屋冨祖正弘さんの撮影した『与那原の綱曳』の見所は、なんといってもダイナミックな構図。常に撮影ポイントを変えながら、臨場感のある構図で飽きさせない。シンプルに観ておもしろいのだ。その上で重箱の隅をつついていくと…

1)丘の上の聖クララ修道院

右上の建物が聖クララ修道院

ファーストカットは、現在の国道329号線。与那原の三叉路に向けて南向きの映像が映し出される。被写体としては旗頭行列だが、気になるのは丘の上の聖クララ修道院。今は沿道も大きな建物が増えて、修道院も目立たなくなったが、かつて丘の上に佇むモダンなデザインは、宗派に関係なく、神々しさを感じさせたと言う文章を、何かの記事で読んだことがある。そんな聖クララ修道院の当時の雰囲気をこのカットから少しは感じられる。

 

 

2)支度(したく)

浦島太郎。後ろは亀。

支度とは、綱曳の前座として盛り上げる琉装の役者たち。近年では「護佐丸と阿摩和利」というのが定番になっている。琉球史に燦然と輝く武将の対決は、古来からの伝統かとすら思っていた。しかし、そうではなかった。例えば戦前の社会学者の河村只雄が撮影した8ミリフィルムには、伊平屋の大綱曳の映像が観られるが、仕度は武田信玄と上杉謙信が登場する。世に言う『川中島の合戦』の再現だった。

だがしかし、与那原の綱曳はまた一味違う。もはや戦いとはなんの関係もない『浦島太郎と竜宮乙姫』が登場する。これはどういうことなのか?ちょっと気になる部分なのだ。これについては次回の「後編」でさらに掘り下げる。

3)アメリカ世

綱の先端に取り付けられた日の丸と星条旗。

綱曳の開始直前。雄綱と雌綱が合体するのだが、それぞれの先端には、日の丸と星条旗がセットされている。これによって撮影時期は、沖縄が日本に復帰する前の映像であろうと絞り込める。復帰前なら日本国旗だけと思いがちだが、デモをやっているわけではないのだ。公の場では琉日米友好は重要なポイント。実際、観覧席には米国の高等弁務官も来賓で来ていたという。本作では写っていないが、遠藤さんが撮影した『1957年の糸満豊年祭』では弁務官らしきカーキー服の人物が写っている。また綱曳の引き手として、米国軍人の姿もそこかしこに写っている。

 

4)与那原の展望台

奥に見える建造物が、与那原の展望台。

時折映し出される不思議な形の建造物がある。三角錐を逆さまにしたような未来的なデザインだが、それは与那原海岸に建っていた展望台であった。沖縄県公文書館で「与那原町」の写真を検索するといくつもの「与那原大綱曳」の写真が見つかるが、この展望台の写真や、展望台の上から撮ったと思われる写真が散見される。聖クララ修道院と並ぶ、与那原のモダンな建築デザインと、勝手に呼んでいます。

5)撮影された時代

こればっかりは聞いてみないとわからない。そこで与那原町立綱曳資料館に上原正巳館長を訪ねた。その様子は後編で

(文:真喜屋力)

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