『カメチヨ・フィルム』調査報告

▲1050年の国際劇場正面(「カメチヨフィルム」より)

 

1950年の沖縄の姿を記録した通称『カメチヨ・フィルム』の資料解析の状況を、本ブログでも公開することになりました。

『カメチヨ・フィルム』は、私たちが収集してきた8mmフィルムの中でも一番古い映像で、同時に国際通りの名前の元になったアーニーパイル国際劇場や、まるで闇市のようなマチグワァーなど、私たちが今も関わりのある風景と繋がる“過去”を、動画という形で生き生きと見せてくれます。

調査の意義と方法

60分にも及ぶ映像の中には、撮影場所が特定できていないカットもたくさんあります。これらを解析することで、資料としての使い道がひろがっていくことになります。

そのためには、大勢の人の知見や記憶に頼るのが効果的です。現状でいうと、フィルムは許諾の関係で完全公開というわけにはいきません。そこで映像の内容を解析するために、要パスワードの状態でネット上に置き、複数の関係者、研究者にのみ公開しています。

ゆっくりではありますが、映像の解析を進め、その情報をオープンにしていきたいと思います。もちろん公開の許諾が出しだい、映像の配信や、アーカイブへの寄贈などを進めていく予定です

 

» 「カメチヨ・フィルム」本編動画(TC入り、要パスワード)

調査状況はこちらで公開 ↓↓↓

» 「カメチヨ・フィルム」内容 | 沖縄アーカイブ研究所

 

また解析情報をやり取りするオープンな場所としてFacebookのグループを作成していきます。


カメチヨ・フィルムとは

「カメチヨ・フィルム」と僕らが呼んでいる1時間ほどの8ミリ映像があります。ハワイ移民として成功した上原カメチヨ(諸説あり)さんが撮影したこのフィルムは、半分くらいが1950年の沖縄で、残りは1960年代まで飛び飛びに撮影されています。おそらく故郷に里帰りするたびに撮りためたものを編集したものなのでしょう。
国際通りの名前の由来になった国際劇場や、那覇市役所(オリオン通り)、さらには、ひめゆりの塔などの有名な場所だけでなく、故郷の小禄村の穏やかな生活の記録。そしてドライブで眺める沖縄本島各地の風景と、非常に多岐にわたる映像が記録されています。


【タイトル】カメチヨ・フィルム(元素材には『Okinawa1951』と記載)
【撮影時期】1950年、1960年代
【撮影媒体】8ミリフィルム(カラー) スキャン方式:スクリーン撮り→VHS→DVD→mp4データ


入手経路

▲発見されたVHSテープ。と、ラベルのアップ。

小禄の町史編纂などをされている高良広輝氏より、DVDメディアの状態で入手。 元素材は、撮影者の親戚の家にあったVHSテープで、小禄の町史の編纂資料として提供されたものです。 提供者は撮影者と直接の面識はないようですが、ハワイの親戚からもたらされたテープだろうと思われている。現在もハワイの親戚とは交流があるので、詳細は確認中です。

タイトルについて

発見されたVHSテープには、タイトルとして『Okinawa 1951
』とありますが、内容が1950年の映像が中心なため、誤解を避けるために通称として利用している『カメチヨ・フィルム』という呼称を利用しています。

撮影者について

撮影者の名称は上原カメチヨとされていたが、カメキチ、カマゾウなど諸説あり、テープ発見者もおぼろげな状態。暫定的に上原カメチヨとし、フィルム名称もカメチヨ・フィルムと呼称している。
撮影者は、ハワイ移民として成功した人物です。故郷である沖縄に里帰りするたびに撮りためたものを、一本につないだのが、この映像なのだと思われます。

内容

小禄からハワイへ移民した撮影者は、沖縄に何度か帰省し、映像を撮り溜めました。ほとんどが1950年に撮影されたと思しき映像。それから断続的に1960年代までの沖縄の風景を記録しています。また映像には全編にレコードから録られたと思われる沖縄民謡が、 メドレーで録音されている。映像の詳細は以下のリンク先で公開。

許諾に関して

沖縄の家族から、公的な資産としての利用許諾はいただいていますが、念のためにハワイのご家族とも連絡をいるところです。そのため、現状は限定的な公開か、一部の静止画などを紹介するのにとどめています。またBGMとして録音されている音楽は、レコード音源と思われることから、公開に際しては無音の形での公開とする予定です。

特筆すべき特徴

『カメチヨ・フィルム』には、以下の三つの特徴が挙げられます。

  1. 庶民レベルの生活を描写
  2. 広範囲のロケ
  3. 歴史的なイベントの記録

1)庶民レベルの生活描写

8ミリフィルムはお金のかかる遊びなので、ある程度は裕福な家庭の姿が記録されがちです。特に古い映像ほどその傾向があります。カメチヨさんはハワイで成功した人ですが、ひとたび故郷の沖縄に帰れば、茅葺き屋根が立ち並ぶ、決して裕福ではない集落のコミュニティーの住人でした。村人たちとの交流や、懐かしの故郷に対する優しい眼差しは、通りすがりの観光客目線とは違う、素朴な魅力を切り取っています。

▲手の甲にハジチのある老婆。
▲1950年当時の小禄小学校。

2)広範囲のロケ

撮影の中心は、生まれ故郷の旧小禄村(現 那覇市小禄)の集落ですが、近場の那覇市の国際劇場やガーブ川が流れる市場などにも足を運びます。また何度か乗り合いバス(トラックの荷台も)をチャーターしてドライブする場面もあります。糸満市内、ひめゆりの塔、南部戦跡、知念半島の朝日、金武町の大川、おそらく名護市内と思われる町並、本部町の渡久地港と伊江島。さらに特定できないロケ地がいくつもあり、広範囲の観客にとっても、我が町の記録として見てもらえる内容です。

▲1950年ごろの”ひめゆりの塔”。
▲ヤンバルのドライブで映る役所風の建物。

3)歴史的なイベント

知る人ぞ知るトピックかも知れませんが…。1950年3月に、ハワイから第一回の観光訪問団として63人の沖縄移民の人々が米国の客船ゴードン号で来沖しました。これは戦争で引き裂かれた沖縄の人々が再会を果たす、最初の大規模な里帰りでした。この一行を迎える盛大なイベントが、「カメチヨ・フィルム」には収録されていました。このような映像資料は、今後の沖縄戦後史の研究でも利活用可能な重要な資料だと思います。

▲第一回 ハワイ訪問団の様子。
▲1950年3月に観光団を乗せて来たゴードン号。

 


(文:真喜屋力)