終戦後7年目に行われた、ひめゆりの塔慰霊祭の様子を記録した8ミリ映像。女神の像の除幕式が行われていることから、1952年の慰霊祭であることが裏付けられています。戦時中に、ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善や、戦後の沖縄の文化政策に貢献した川平朝申も登場します。
No. 0113-01
タイトル:ひめゆりの塔 慰霊祭
撮影者:遠藤保雄(Yasuo Endo)撮影メディア : 8mm Film/Color
本編時間: 3m20s
撮影時期 : 1952年6月29日
主なロケ地 : ひめゆりの塔 (沖縄県糸満市伊原)
スキャン方式 : Aerial Image
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ひめゆりの塔
撮影者は、この映像を撮るために那覇に向かい、安里にあった乗合バスに乗車して糸満ロータリーのバスターミナルに行き、そこから歩いて5.5km先のひめゆりの塔へと向かったそうです。そのころのバスはトラックの荷台に長椅子を置いただけのもので、出発時間は決まっておらず、人が集まったら出発するという感じだったと聞いています。いずれにしろ当時は交通の便が悪く、慰霊祭に参加する関係者も、かなり苦労していたようです。
撮影日の特定
もともとこのフィルムの冒頭には、フィルムで撮影された撮影日のテロップが付いていました。そこには「1951年6月23日」と記されていたのですが、映っている内容から撮影者の記憶ちがいであることがわかり、本映像では削除しています。実際の撮影日は1952年6月29日です。
撮影日の特定で、決定的だったのは伊藤宝城の彫刻した”女神の像”が映っている事でした。女神の像は除幕式後に、ケースに収納されたそうなので、映像の位置に裸で像が建っていたのは、この1952年のタイミングでしかありえません。これは前年の1951年に、玉那覇正吉の手による乙女像が設置されたものの、その年の10月に台風で倒壊しました。経験を踏まえての措置なのでしょう。下のリンクに、玉那覇正吉の手による乙女像が設置されたときの写真を見ることができます。
上の写真とリンク先の写真を見比べていて、あることに気が付きました。上の写真のひめゆりの塔の上に、どうも乙女像の足元らしき痕跡が残っているように見えます。この辺は証言を集めて見たいと思います。
ひめゆりの塔の変遷については下記リンクの「研究ノート9ひめゆりの塔の歴史(前・後編)」にまとめられています。
また同会報の58号には『写真でふりかえる「ひめゆりの塔」の 70年』が掲載されていて、年代特定の資料として重宝しております。
仲宗根政善と元ひめゆり学徒
ひめゆり学徒たちを引率していた、仲宗根政善と元ひめゆり学徒の再会の映像は、このフィルムで最も感慨深いところでしょう。1907年生まれの仲宗根政善は、このとき45歳。元学徒は20代中頃。子供を連れている女性もいます。まだ混沌とした終戦直後とはいえ、平和の重みを痛感させられます。
USCARの川平朝申
USCARの車で駆けつけたお洒落な格好の男性は川平朝申。戦後沖縄の文化政策を象徴するキーマン。撮影者とも知り合いで、カメラに向かって笑顔を送っているのがわかる。
儀間真一の仕事
「参拝記念の木札」が並んでいる。その横に並んでいる石碑のようなものは、ひめゆりの塔の敷地を示すもので、コンクリート製。間に鎖がはられていて、現在も一部が残っている。実はひめゆりの塔とひめゆりの悲劇が知られるにつれ、この場所が観光地となったために荒らされる事態になった。それに心を痛めた日系二世の儀間真一が、遺族会に寄付を行って土地を購入することになった。そのさいに、儀間自身が人足とともに、この映像のようなコンクリート製の境界を作った。儀間はトラックのヘッドライトを使って夜通し作業を行なったという逸話が残っている。またひめゆりの塔には、その顕彰碑も立っている。
ひめゆりの塔周辺の風景
最後に映るのは、ひめゆりの塔の周辺の風景と思われる。遠目に集団で休息をとっているグループは、楽器を持っていることから那覇中学の吹奏楽部の生徒と思われる。映像の冒頭近くで、彼らが演奏している様子も映っている。迎えを待っているのだろうか?いずれにしろ楽器を持って遠くまで行くとも思えない。
現在のひめゆりの塔周辺との様変わりぶりを味わえる。またこのような風景は、戦時中のひめゆりの塔周辺に想いを馳せるのに役立つかもしれない。
(文:真喜屋力)
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