パノラマシリーズ第三弾。懐かしい首里の風景をお楽しみ下さい。
No. 1619-03
タイトル:那覇市のパノラマ3〜首里・龍潭
撮影者:山里景吉(Keikichi Yamazato)撮影メディア : 8mm Film/Color
本編時間: 3m34s
撮影時期 : 1970年ごろ
主なロケ地 : 龍潭周辺 (沖縄県那覇市首里)
スキャン方式 : Frame by Frame
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弁財天
那覇市内のあちこちの風景を記録した山里景吉さんの第三弾。
守礼門
「守礼之邦」という扁額からズームバックし、お馴染の守礼門の全体像が映し出される冒頭のショット。門の向こうに見えるのは首里城ではなく琉球大学。そんな1970年代のお決まりの風景でスタート。現在とは違い、門の周りに石垣はなく、すっきりとした青空が広がっています。
守礼門は戦災で焼失後に、1958年に再建されました。首里城や周辺の整備ができるまで、門だけが佇むと言う後継から「日本三大がっかり観光地」とまで言われていました。
撮影の時間帯は西日が差していることから夕方であることがわかりますが、今ではお馴染となった記念撮影屋さんが一人もいません。復帰前の守礼門はこんな風に静かな佇まいだったのでしょう。
園比屋御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
守礼門の背後に構えるのは園比屋御嶽。これも戦災で壊されましたが1957年に復元されます。守礼門より早いのは以外ですが、守礼門に比べればシンプルなこともあったかもしれません。しかし、それ以上に祈りの場として、庶民から見ると必要性の高い場所だったと言うのもあるのかも知れません。
琉球政府立博物館
龍潭の向こう側に見えコンクリートの建築物は琉球政府立博物館。復帰後は沖縄県立博物館と名前を変えます。現在の沖縄県立博物館美術館の前身で、立地場所は中城御殿(なかぐすくうどぅん)跡の敷地でした。この博物館は2009年3月に取り壊されています。
ウィキペディアの説明にもある通り、琉球政府立博物館はそれ最初首里博物館という名前で現在の県立芸大の校舎の位置に1953年に作られたものが、1955年に名前を「琉球政府立博物館」となり、そこからこの映像の位置に移転して、さらに日本復帰の年に沖縄県立博物館へと名前を変えています。ちょっとややこしいですね。
首里博物館は赤瓦の美しい博物館でした。その映像は以下のリンクにあります。その映像の中で首里バスがフレームインしてくる場面がありますが、そのバスが出てくるところが中城御殿跡というのもちょっとおもしろいところです。丘の上の限られた土地をいろいろやりくりしながら地域造りを行ってきた歴史のようなものを感じます。
戦災アカギ
通称”戦災アカギ”は戦災で枯れ木となったアカギの大木。この時代までは少なくとも枯れ木であるが現在は青々と下覇が生い茂っている。が、それは枯れたアカギにアコウの木がヤドリギとして取りついたもの。現在はその歴史的な意味合を伝える案内板がついており、訪れた人にその成り立ちを伝えています。
弁財天堂と円鑑池(えんかんち)
1502年に作られた人口の池「円鑑池」とその中心に建つ「弁財天堂」は、その名の通り航海安全を司る水の神である弁財天が祀られていました。それを故かアーチ状の橋は「天女橋」と言います。もちろん戦災で島と弁財天堂は砲弾を受けましたが、天女橋は崩れ落ちていただけで欄干などは崩れ落ちたものの原形は留めており、1969年の復元のさいに修復後戻され現在に至るようです。
なんと言ってもこの時代の円鑑池は、水草がものすごくびっしりと栄えたホテイアオイなどで緑色をしていました。そんな記憶を思い起こさせてくれる映像です。
龍潭
みんなが釣に興じている池は「龍潭」。円鑑池のすぐ隣にありますが、これも1494年に作られた人工池です。由来が書かれた碑文には「安国山に龍潭を掘り、香りのする木や花を植え、万人が利用できるようにして太平の世のシンボルとして永遠の記念とした」と記されていて、当初から周辺の人々の憩いの場として作られたことがわかります。
今はバリケンが住み着きのどかな雰囲気は増していますが、釣は禁止となっていて、このフィルムのようなにぎやかな感じは若干薄らいだと言えるかも知れません。
最後に映るカットは県道29号線(龍潭通り)から見た風景。博物館を背にして龍潭を撮った感じです。向こう側に見えるのは琉球大学です。
(文:真喜屋力)
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