「宮古島への帰郷」第二弾です。
No. 1465-00
タイトル:宮古島への帰郷 1973 正月
撮影者:山里景吉(Keikichi Yamazato)撮影メディア : 8mm Film/Color
本編時間: 17m38s
撮影時期 : 1973年1月
主なロケ地 : 宮古島 (沖縄県宮古島市荷川取)
スキャン方式 : Frame by Frame
1971年の帰郷時の撮影に比べて、里帰りの感じが抜けて、旅行感たっぷりの映像なのが少し物足りないところです。
新しくできたようなオシャレなホテルが、何度となく映し出されるのも特徴的です。これは1973年という時代を考える必要があるのかもしれません。
沖縄が日本に復帰したのが前年の1972年。本土との行き来にパスポートが要らなくなり、観光客の来島が増加してきた時代。なによりも1975年の海洋博もあり、この時代はホテルが乱立した時期です。それは宮古島も例外でなかったのではないでしょうか。これまでの旅館ではなく、洒落た新しいホテル。撮影者も真新しい観光ホテルに目線が言っていたのではないでしょうか?
ちなみにこのホテルの名前などわかる方がいたら、情報提供お待ちしております。
沖縄県宮古島市カママ嶺公園にある「しんしんと肺碧きまで海の旅」句碑が写ります。ざっくりと言うと、作者の俳人・篠原鳳作は鹿児島出身で、宮古島で教師をしながら俳句や絵画をひろめた人です。詳細は下のリンク先にありますのでそちらもお読みください。
この碑が建立されたのが1972年。つまりこの映像の前年。新しく建てられた碑を見にいったわけですね。
前回に上げた1971年の映像が、連綿と続く宮古島の生活を撮っていたことを考えると、復帰直後に撮影されたこの映像は、宮古島の変化の始まりが映されているのかも知れないと、ふと思ったりもします。
その次もまた記念碑が写ります。久松五勇士の顕彰碑です。これは日露戦争での日本の勝利を招いた日本海海戦の前日譚によるもの。日本海を北上する帝政ロシアのバルチック艦隊を目撃した日本の民間船の情報を、宮古島久松の5人の漁師が、サバニという小舟に乗って無線基地のある石垣島まで船を漕いだ。結果的には日本の商船信濃丸からの情報が早くて、五勇士の仕事は忘れられていたのだが、後にこの物語が知られ、久松の漁師たちの勇壮さを讃えることとなり、1966年に顕彰碑が建てられたということです。
久松五勇士に関しては、いろいろ切り口があっておもしろいのですが、「宮古島キッズネット」の記事が、子供向けのようで、妙にマニアックな内容と文字量で書いていてちょっとおもしろかったので、下にリンクを貼って起きます。
海岸の散策の後、赤い吊り橋をわたったりしつつ、上比屋山遺跡(ウイビャーヤマ)が映し出されます。上比屋山遺跡の情報はあまりネット上ではありませんが、14〜15世紀頃の古い集落跡です。
つづいて、玉石保存記念碑と砂川神社(ウルカガワジンジャ)。こちらについてもATALAS Blogにユニークな解説があります。見た目は平凡ですが、なかなか興味深い内容です。
この後、映像は平安名崎などの景勝地の映像、宮古上布の機織所、そして再びホテルを経て、集落の方へと向かいます。
家々の入口には正月と言うことで日の丸の旗が掲げられています。復帰前後の沖縄ではよく見られましたが、昨今はめっきり減りましたね。
その後、親戚の家で正月のお祝いに参加しますが、やや暗めの画面でわかりづらいのが残念。
(文:真喜屋力)
上記のホテルは宮古観光ホテル(後の東急ホテル)と言う名前のホテルです。
これが前浜ビーチに移転し、東急ホテルとなりました。
貴重な情報、ありがとうございます。