辺野古から名護へ69KVの電気を運ぶ送電インフラの工事記録。純粋に仕事の記録だが、技師自身が自分のカメラと8ミリフィルムで記録したプライベートフィルム。
辺野古-名護間に施設された電力インフラ工事で、1960年当時の施工方法の記録としても貴重。
No. 0047-00
タイトル:辺野古-名護 69KV送電線工事 測量・基礎編
撮影者:遠藤保雄(Yasuo Endo)撮影メディア : 8mm Film/Color
本編時間: 33m58s
撮影時期 : 1960年11月24日
主なロケ地 : オリオンビール名護工場 (沖縄県名護市)
スキャン方式 : Aerial Image
*********************************
主なロケ地表示(Google Map表示)
名護城跡 / オリオンビール名護工場
このフィルムの冒頭は、まるで映画の一部のようなドライブシーンからスタート。同僚のアメリカ人が運転する車の助手席からカメラをかまえ、車窓には名護に向かう道すがらの海岸風景が見える。
海岸のドライブ
沖に見えるの本部半島の稜線からすると、恩納村の辺りから見た風景と思われる。
名護城跡からの眺望
続いて高台よりの風景が映し出されるが、風景から察するに名護城跡周辺から見降ろした名護町(現 名護市)の全景。下の画像で言うと、左端に大きく見えるビルがオリオンビールの名護工場と思われる。そのビルのすぐ上辺りに海に突き出した桟橋が見えているのもチェックポイント。
名護変電所とオリオンビール名護工場
このフィルムには変電所のための測量風景と、後半は高台に設置する高圧送電鉄塔の基礎工事が収められている。
那覇市歴史博物館で「オリオンビール工場」と検索すると、1960年代とおぼしき写真が見つかるので見比べていただけるとわかりやすい。
次の抜き出した画像はオリオンビール工場を背に、測量をする様子の抜きだし。現在もこの位置には名護変電所があるが、その建設の準備段階を記録したものだろう。また、この広い畑のような土地のほとんどは、現在はオリオンビール園ヤンバルの森となっている。
工事事務所の看板
つづいて工事事務所の外観が映し出される。木造の山小屋の様な事務所の入口のすぐ横には「東京電気名護事務所」と看板がかけられている。
東京電気株式会社は東芝の昔の名前だが、これについて調べると、1960年当時の東京電気は、
1950年2月 – 東京芝浦電気株式会社(現在の東芝)大仁工場から分離独立し、東京電気器具株式会社設立
1952年12月 – 東京電気株式会社に会社名変更(かつての東芝の旧社名と同名)
1999年に東芝テックと社名変更
と、あるように、現在の東芝テックという会社の前身であろう。引用文にもあるが「東京電気株式会社」は東京芝浦電気株式会社(東芝)の旧名でもあるのがおもしろい。つまり東京電気が東芝になってその名前が消えるが、後にそこから分離独立した会社が再び東京電気を名乗っていたのだ。
で、小屋の上の方には工事の内容が書かれた英語の看板が掲示されている。
“U.S. ARMY CORPS OF ENGINEERS”という文字と、ロゴらしきマークが、最上部に書かれている。ここは公式サイトらしきものもが現在もあり、開くと赤いロゴと同じものが見られる。これが発注元ということか。
その下の太字が工事内容で
『RELOCATION AND EXTENSION OF 69KV POWER TRANSMISSION LINE AT NAHA. AZA AND HENOKO-NAGO』とある。
『NAHA.AZA』とは「那覇 安謝』のことだと思われる。だいたいで翻訳すると「那覇安謝そして辺野古-名護間の69KV送電線の移転・増設」ということか。沖縄本島を縦断する、大規模な電力インフラの延長工事であることが示されている。
高圧送電鉄塔の基礎工事
平地で変電所の測量が行われているあいだに、高台では辺野古から名護に結ぶための高圧送電鉄塔の工事が進んでいる。フィルムにはその基礎工事の様子が丹念に記録されている。ちょっと見ると退屈な工事記録のようだが、じっくり見れば、作業の細かな段取りが記録されているので、観るたびに発見のある”通好み”なフィルムと言える。なにしろ手順を知り尽くした技師の手による撮影なのだ。ポイントはしっかり抑えている。1960年代の工事の手順という意味でも、後世に残した映像だ。
(文:真喜屋力)
Leave a Reply