『沖繩縣の名所古蹟の實況』を巡るあれこれ(1)

フィルム再発見までの経緯

このボロボロの物体は、先日、復元の発表をした1932(昭和7)年の沖縄で撮影された記録映画『沖繩縣の名所古蹟の實況』のフィルムだ。フィルムは主に戦前の映画に使われていた使われていたナイトレート(可燃性)のものだから、原版の複製物だとしても、撮影当時に作られたものだろう。

80年前のフィルムと思えば、さもありなんと言う状態なのだが、18年前に一度発見された時はまだ映写機にかけられる状態だった。つまり半世紀以上は持ちこたえた古いフィルムが、たった18年で、観ることはおろか、修復不能な状態まで劣化したことになる。悩まし過ぎて途方に暮れる。それでも今回、様々な協力をえて、復元作業を一通り行うことができた。この作業の記録と将来の参考のために、復元までの経緯を何回かに分けて連載していくことにした。まずはフィルム発見時の状況から始めます。

あのフィルムは今?思い出話から大捜索へ

発端は2016年の9月。株式会社シネマ沖縄主催のシンポジウムで、沖縄県内の8ミリ映画のデジタル化と公開の実証実験を行った。この時、観客として参加したフリージャーナリストの土江真樹子から「ずいぶん前に桜坂劇場で撮影させてもらったサイレント映画はどうなったの?」との質問を受ける。僕は過去に桜坂劇場のディレクターをしていたのだが、そんな記憶はなかった。話をよく聞いてみると、どうやら2005年に桜坂劇場ができる前の話であることがわかった。

桜坂劇場の前身である桜坂シネコン琉映の映写技師が、戦前の可燃性のフィルムを倉庫で見つけ、当時は琉球朝日放送(QAB)にいた土江に連絡したのだ。土江経由で持ち込まれたフィルムを、QABはクリーニング、修復を行い、再び桜坂シネコン琉映に持ち込み、スクリーン試写と同時に撮影を行う。その後、QABは戦前の古いフィルムが発見された旨をニュースで報じた。しかしフィルムは琉映に返却され、土江にもそれ以降の消息はつかめていないという。

桜坂シネコン琉映を経営していた琉映は2005年に映画事業から撤退。以後、映画館を引き継ぐように、株式会社クランクの経営で桜坂劇場がスタートした。その際に琉映は所有していたフィルムを、すべてクランクに譲渡していた。もしフィルムが今もあるとすれば桜坂劇場の倉庫にあるはずだった。その日のうちで桜坂劇場の映写技師にフィルムの捜索を依頼し、同時に土江にQABのビデオテープの捜索が依頼される。

無残…遅過ぎた発見

発見直後のフィルム。側面にタイトルが読める。

あっさりとフィルムが見つかり、僕は桜坂劇場に駆けつけた。問題のフィルムは倉庫の中のスチールロッカーに、コンビニのビニール袋に包まれて保存されていた。袋を開けると、凄まじく錆びついたフィルム缶が出てきた。もうその時点でフィルムの状態は想像できたが、一縷の望みをかけて缶を開けた…が、錆がひどくて開く気配がまるでない。それでも力を入れると蓋は崩壊し、そのまま錆の塊が張り付いた状態のフィルムが出てきた。フィルムには錆だけでなく、クッションがわりに詰め込まれた古新聞も張り付いている。フィルム自体も固着しており、ほぐすことはできない。部位によっては縮みも生じていたし、ところどころ不気味な液体でジクジクしている。とてもじゃないが復元に利用できるものではないことは一目でわかる。さらに観察すると、フィルムの外側に白マジックで『沖縄県の名所….』と書かれているのがうっすらわかったが、この時点でフィルムの正体は不明の状態だった。つづいてQABからビデオテープが見つかったと報告が入り、試写をさせていただく日程を整える。

QABの映像との対面、そして正体も判明

テープのラベルには「1998年5月10日」と日付があった。ここで始めて、僕らは撮影された映像をモニターで観ることができた。タイトルは『沖縄縣の名所古蹟の實況』。内容は既報通りだが、この段階では大きく二つの欠損箇所があることがわかる。


QABテープの欠損部分
  1. 字幕で「奥山公園」と出たところで画面が乱れ、真っ暗になり、ほどなくしてホールが明るくなり白いスクリーンが浮かび上がる。少し待つと照明が落ちて、再び映像が始まる。これは後に映写を担当した技師にも確認したが、フィルムが乱れたためにいったん映写をストップしたのだ。そしてフィルムの状態が良いところまで先に送って、上映を再会した。つまり数秒間ではあるが、映像は安全な上映のためにカットされたことになる。このフィルムが可燃性のフィルムであったことから、火事などの事故を恐れて、いつも以上に慎重に上映していたことも語っていた。
  2. 映画のラスト。船が港を離れていくカットの途中で映像が途切れる。これは撮影したビデオテープが足りなくなったためである。

ここで僕らは映画に出てきた字幕(取材場所の地名など)を、映画史研究家の世良利和に送って情報を募った。これまた速攻で返信があり映画の正体、つまり同年に渡口政善が製作し、吉野二郎が監督した沖縄ロケ映画『執念の毒蛇』の同時上映のために作られた作品である。だとすれば監督スタッフもいっしょだと考えるのが順当。『執念の毒蛇』は2002年に吉野二郎監督の没後50年にあたり、著作権の保護期間が満了している。つまりパブリックドメイン(PD)である。QABで問題なければ、公的な機関に収蔵し、より多くの人々に観ていただくことができるのではないかと思いたち、復元と公開に向けて調査がスタートする。

新たなる登場人物で急展開

2016年11月18日。なんと沖縄テレビ放送(OTV)にも同じ映像が発見されたとの報告が入る。これまた試写の日程を調整し、現物を確認するために駆けつける。確かに見せてもらった映像は、同じものを映している。それもQABのコピーではなく、別の日に撮影された物であることが判明。なぜ別の日とわかるかというと、QABのテープにはない映像があり、逆にQABにあった映像がOTVにないという状態だったからだ。具体的に書くと以下の通り。


OTVテープとQABテープの相違点
  1. QABにあったタイトル部分がOTVにはない。確かにQABの映像でもタイトル部分はかなり不安定であったため、再上映のためにカットされたのだろう。
  2. 「奥山公園」の字幕の後の不安定な箇所がなくなっていて、その次に来るチャプター「招魂祭の実況」の字幕からその後の映像がすべて揃っている。
  3. QAB版で尻切れとんぼになっていたラストカットが最後まで収録されていた。ただしラストの1コマは、1/6程度の映像を残してブツ切れになっていた。この後何らかの映像があったのかはわからないが、諸般の状況により、撮影スタッフの帰国のための船上からの撮影と思われるので、事実上のラストカットであろう。もしかしたら「終」などのテロップはあったのかも知れない。

この時点で、二本のテープを合わせれば、欠損部分は『奥山公園』のチャプターだけで、最も完全に近い映像が復元可能になることがわかった。

民間の放送局二社が企業の垣根を越えて映像提供

そこで昨年の暮れ、シネマ沖縄、そしてQABとOTVで三社会議を行う。僕からの提案事項は「放送局二社がそれぞれの映像を提供し、シネマ沖縄にて復元作業を行う。復元映像はまず3社で共有すると同時に、公的なアーカイブに寄贈する」というもの。もちろん両放送局ともに快諾をいただく。企業間の垣根を越えて、沖縄県の文化資源が一つ生れることが決まったのだ。もっとも、これによって著作権、所有権が宙ぶらりんの映像を利活用で可能になるというのは、不特定多数の利用者だけではなく、テレビ局自身もなのだから、当然といえば当然。誰もがウィンウィンなはずなのに、誰かが動かないと埋もれてしまう著作物は数限りなくあるように思う。そういう意味で、僕らは刺激を与える意味はあるようだ。

復元はしたけれど

そんなわけで復元までどうにかたどり着いたわけだが、ここにきて次のもっと大きな山にぶち当たる。「著作権」等法律の問題である。

ということで、次回は時代を巻き戻して、フィルムの誕生から、元の素材が撮影されるまでの経緯を細かく記しておこうと思う。それから、改めて今後の課題に付いまとめてみたい。

 

» 『沖繩縣の名所古蹟の實況』を巡るあれこれ(2)

(文:真喜屋力)

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