1971年10月10日、戦後初めての那覇大綱挽きが行われました。これは単に休んでいた祭の再開ではなく、復元と言うのがしっくりくるような労力が注ぎ込まれた一大プロジェクトでした。
映像の前半は、大綱挽きの”旗頭”製作の過程を追った職人たちの映像。後半は那覇大綱挽の記録です。今回は二回に分けて記事を書こうと思います。
後半の解説は↓
» 旗頭制作と那覇大綱挽本番(2)
No. 0991-00
タイトル:旗頭制作と那覇大綱挽本番
撮影者:島袋昇信(Shoushin Shimabukuro)撮影メディア : 8mm Film
本編時間: 28m35s
撮影時期 : 1971年
主なロケ地 : (沖縄県那覇市久米,久茂地,他)
スキャン方式 : Frame by Frame
那覇大綱挽とは
沖縄の多くの市町村では、毎年の豊年祭とともに大綱曳きが行われています。しかし、琉球王朝の時代から商業都市として発展した那覇の綱挽きは、国事、慶事の際に行われるような特別なイベントでした。1971年の前は1935年の「波之上宮300年記念祭」で36年ぶり、その前は1933年、1931年、そして1921年….と、非常に限られています。これはつまり、祭を復元するための経験者が限られると言うことであり、1971年の那覇大綱挽の復活(復元)は、これ以上先延ばしにすると、ますますもって困難になるというぎりぎりのタイミングでもありました。
復元には大綱、衣装、楽器と楽曲、さらに式次第などと多種多様な資料調査が必要でした。もちろん祭を盛り上げる各字を象徴する”旗頭”の制作も重要課題。
もともとの那覇大綱挽は東町、西町、泉崎、若狭町の四つでしたが、1971の那覇市は、すでに首里、真和志、小禄が合併し、参加する地域の数も増えており、新たな旗頭の創作もあり、全部で14本の旗頭が必要とされたのです。
『那覇大綱挽 二十周年記念誌』の中で友寄英彦氏が書いた「那覇大綱引き復活まで」によると
まず旗頭の再現について、前に記したように幼少から手芸に優れ、何回も旗頭を作ったことがある友寄英春君が6人の経験者を探し出して来てくれた。そこで昭和46年二月初旬、安慶名克光君(78)、の家で、友寄英春(71)、金城唯興(69)、瀬名波良将(79)、具志堅以徳(70)、金城安太郎(65)のみなさんに集まっていただいた。…(中略)…首里の旗頭は玉那覇正吉画伯に設計を依頼した。
※画家である金城安太郎は垣花の旗頭を担当。彼は辻町の二十日正月に使われるミルクの面と獅子舞も制作している。(編集者補足)
とある。1971年4月以降は、金城唯興の家に安慶名克光、友寄英春が通って10旗(東西の1番旗と2番旗、若狭町、泉崎、辻、泊、真和志、小禄)が制作された。残りのうち久米の旗は具志堅以徳、久茂地は瀬名波良将、垣花は金城安太郎が各自宅で一旗ずつ制作。首里は玉那覇画伯の設計で制作されている。
本映像は冒頭に書かれているように、安慶名克光の家族が、金城唯興の作業場を中心に記録したもの。
前半はモノクロ画面。室内で繊細な作業をする職人たちの姿が淡々と描かれる。
安慶名氏は、大綱挽の復活が決まる以前から、旗頭のミニチュアも作っていたようで、本フィルムにもそのミニチュアを使ってシミュレーションをするような映像が残っている。背景にわざわざ青空の絵を描いて撮影しているのがなんだか、かわいらしい。いや、思い入れの深さを感じる。
この件に関しては写真も含め、下記の沖縄タイムスプラスの記事も併読いただきたい。
とにかく職人の手仕事の映像と言うのは、見ていて惹きつけられるものがある。約半年の期間に、高齢の職人たちが、資料と記憶をたぐり寄せて後世に伝えようとした文化の重みが伝わり、なんだか身が引き締まる思いだ。
本来は、もう少し丁寧な検証作業を行ないたいが、それは別の機会に行なうということで、今年の大綱挽の前に映像をアップしますん。
これだけでおなかいっぱいなので、同じ動画の後半、道ジュネーから大綱挽きのようすは、次の記事で検証したいと思います。
(文:真喜屋力)
オマケ 旗頭カタログ
最後に映像に登場する旗頭を紹介します。手持ちの資料も限られているうえに、似たデザインいくつか。さらに名前とデザインが変わる場合もあったりで、きっちり調べられていませんので、ちょっと怪しげなところもあります。指摘があればぜひ御一方ください。
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