【FILMS】琉海ビル陥没事故の翌日

1973年、国道58号線の半分と、近隣の住宅を飲み込んだ琉海ビル陥没事故は、日本の建設事故史の中でも大きく、特異なものでした。

N0. 1462-02
撮影者 : 山里景吉 (Keikichi Yamazato)
タイトル:琉海ビル陥没事故の翌日

本編時間: 3m19s
主なロケ地 : 泊埠頭入口交差点 (沖縄県那覇市)
撮影時期 : 1973年11月27日
撮影メディア : 8mm Film
スキャン方式 : Frame by Frame
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主なロケ地表示(Google Map表示)
泊ふとう入口

 

沖縄国際海洋博覧会(以下、海洋博)まで二年を切った1973年11月26日、急ピッチで進む琉海ビルの工事現場(地上20階、地下4階)で大陥没事故が起こりました。深く掘り込んだ大穴の外壁が崩れ、その範囲は約100m×約60m,深さ約8m(最深部は深さ20メートル)。国道の半分と周囲の住宅、駐車中の車などを巻き込む大事故です。死者が出なかったのが奇跡のようでした。

» 琉海ビル陥没事故 | ウィキペディア

 

▲陥没現場の二日目の様子。急ピッチで埋め戻しが始まっている。(クリックで拡大)

 

事故当日の目撃談

この8ミリの撮影者の山里さんは、当時は事故現場から国道を挟んだ正面のビルで働いており、事故の瞬間を目撃していました。山里さんは、その翌日にフィルムを買い込んで出社し、今回の映像を撮影したと言うことです。今回、事故の瞬間の目撃談も合わせてお話しを聞かせていただきました。

▲左の白いビルが撮影者の勤めていた那覇港運のビル(現 スマイルホテル)。

事故の当日、山里氏は同僚から「向かいの工事現場の様子がおかしい」と言われ、窓から外を見たそうです。それは、ちょうど警察が道路を封鎖しようとしていたところでした。ところが封鎖を逃れた一台の自動車が工事現場にそって国道を横切った直後、その後ろの国道が崩れて工事現場に落ち込んでいったそうです。まさに間一髪の瞬間でした。

しかし、それで終りではなく、続けて穴の反対側の住宅地が崩れ、二階建てのコンクリートの家が平行移動で穴の中に滑り込んだかと思ったら、次々と並びの家々が穴の中に転がり落ちていきます。その後、両脇の道が崩れて落ちていったそうです。そこで初めて、社内の全員に退避の指示が出て、その場は離れたそうです。

▲大地がえぐられても、基礎工事がなされているビルは倒壊をまのがれていた。

 

▲穴の中には破裂した水道管から水が流れ込み、落ちた住宅にも浸水している。

 

▲転がり落ちた住宅。当時は基礎の杭打ち工事などは、十分でなかったのがよくわかる。

 

事故地域の歴史的な特性

今昔マップ on the Webを使って、事故現場付近の地図を大正8年と現在(地形はほぼ1973年とかわらない)とを比較したのが、下の地図です。赤い★が事故現場です。
見ての通り、この地域はもともと干潟で、塩田などが広がっていた場所でした。事故現場は、戦後に港を浚渫した土や砂で埋めた突貫工事のような場所で、もともと地盤が弱い場所だったのがわかります。

 

▲大正8年(左)と現在の事故現場の比較。(今昔マップ on the Webより)※左の青い海の色は、当サイトでわかりやすくするためにで加工しています)

地盤の問題に加えて、国道からの振動や、泊港からの水圧(自己の日は旧暦2日で大潮)も原因の要素ではないかという立地からくる推測もあります。まあそんな立地だからこそ、工法の責任問題は無視できないでしょう。

 

工事の方法について

工事を請け負った竹中工務店の工事担当者 飯塚明広氏は、事故の原因について沖縄タイムスのインタビュー記事で以下のように語っています。

飯塚「最良の工法は、連続地下工法だが、この工法は昼夜兼行で生コンを流し込まなければならず、沖縄の生コン事情からその次に良いとされているPIP工法をとった」

1973年11月23日 沖縄タイムス

また後日の取材記事では以下のような説明と図が掲載されています。

工事は、矢板を打込み、切りばりで支える「土留め支保工」。地下をドリルで掘り、矢板を打込んだ後、穴直すきまにセメントを注ぎ込んで固めていき(PIP工法)、函を作っていく。

11月30日の沖縄タイムスの取材記事

インタビュー記事にある「連続地下工法」とは、おそらく「地中連続壁基礎工法」と言われるものだと思われます。地下に連続したコンクリートの壁を作るもので、大量のセメントを使い、そのまま建築物の基礎として使えるくらい強度も高いもの。

「PIP工法」とか「土留め支保工」は、H鋼や矢板といわれる板状の杭を打ち込んで、薄い鋼鉄の壁を作り、内側から梁で支えていくもの。前述のコンクリートの壁に比べて資材も少なく、時短節約だが強度は低く、飯塚氏のインタビューにあるように「最良の工法」ではなかった。。

8ミリの映像には、押し倒された矢板や土留めがしっかり映っている。

▲押し倒された土留めが映っていた(クリックで拡大)

 

沖縄の事情

インタビューにある「沖縄の生コン事情」とは、良質な製品の不足のことで、原因の一つは、1975年に予定されていた海洋博による観光客の増加を当て込んだホテルやテナントビルの乱立と、開催に間に合わせなけらればいけない時間的な問題が、資材不足を引き起こしていました。

この当時のホテル事情については「本部シーサイドプラザ」の記事でも言及していますので、参考までに下にリンクを貼っておきます。

»【FILMS】モトブシーサイドプラザ起工式

 

そんなわけで、ここで改めて映像を見返してみると、確かにあちこちに建築中のビルが映っています。泊高橋のランドマーク”ふそうビル”もこのころ建築中だったのがわかります。

▲事故現場横の沖縄銀行のビルには海洋博までのカウントダウンが掲げられていた。時計の針は事故の瞬間を指したまま停まっているようだ。

 

そのようなわけで、とにかく工事の資材が不足しており、セメントも県外から多く持ち込まれている状況でした。

撮影者の山里氏は、那覇港運という港の荷揚げの会社に勤めていた。当時のことを聞いてみると、やはりこの時代はセメントが次々と本土から運び込まれていて、フォークリフトの台数も限られていたので、社員が一袋一袋、人力で荷物を積み下ろすなど、たいへんだったという思い出も語っていただき、時代の空気感が伝わってきました。

事故の前兆

その他、当時の新聞には、工事がスタートしたころから、前兆ともいえることが起こっていたのがわかる。例えば地割れであったり、近所の家が傾いで玄関が開かなくなったとか、下水管が壊れたとか….。沖縄の地盤についての知識の少ない本土業者の油断であったという見方は大きいようです。

工事関係者の関連情報として、より専門的だけど簡潔なレポートが「地質情報ポータルサイト」に掲載されていて、なかなか興味深く読めました。そちらもぜひご一読ください。

» 那覇市・琉海ビル建設現場での地盤陥没事故(事故発生3日後の状況)| 地質情報ポータルサイト

もっとも、国道復旧を急ぐ必要もあり、十分な原因調査ができなかったという事実も記憶に留めておきたいところであります。

 

復旧まで38時間

▲事故二日目の復興の状況が鮮明に記録されている。(クリックで拡大)

 

沖縄本島の大動脈が陥没したため、とにかく急ピッチの作業が二昼夜をかけて続けられました。そのかいあって38時間後には車が走れるまでに復旧することになります。

事故の翌日に撮影されたこのフィルムは、8mmとしては非常に鮮明な映像で、この復旧作業の様子を記録していると言うのが、何よりもユニークなところでしょう。しかも、撮影者は停止線を越えて陥没現場のそばまで近づいて撮影を行っています。その理由を聞いたら「カメラを持っているから取材と思われたんじゃないかな」という、ややトボケた答えが返ってきました(笑

 

最後に、復旧工事に関する沖縄タイムスの記事を引用しまて、ひとまずこの記事を終了いたします。。

「徹夜の突貫工事で開通 トラック六千台分 土砂で応急措置」
沖縄タイムス (1973年11月28日)

〜復旧は二十六日夜から二十八日早朝にかけて徹夜の突貫工事で行われ、長さ五十メートル、幅三十メートルにおよぶ国道の陥没部分はたちまち埋めつくされた。これまでの推計では大型トラック(十トン車)の六千台分の土砂がひっきりなしに運び込まれた。これらのコーラルは豊見城、浦添市の牧港、恩納村などから運ばれたが、それでも間に合わず、北部縦貫道路の分をまわすなど緊急借量で国道開通に全力をあげた。土砂の運搬は二十七日午後十一時で済ませ、すぐにアスファルト舗装工事に入り二十八日午前六時には応急措置を終えた。

これらの工事は、総合事務局の指示で、すべてビル工事施工者の竹中工務店と大城組が行ったが、経費については後日算出することにしている。

開通した国道は泊港寄りの四車線だけだが、総合事務局としては土砂で埋めた軟弱地域をさらに固め、早めに本格的な復旧を行い。従来通りの六車線にすることを目ざしている。だが建築工事現場の再開などもあることから、完全復旧までにはかなりの時間がかかるものと見ている。

 

(文:真喜屋力)

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