「モトブシーサイドプラザ」は、「観光沖縄」の歴史に大きな瑕疵を残した建物でした。けして楽しめる映像ではありませんが、歴史を掘り下げることで、ドラマチックな事実に出会えたりする、典型的なパターンです。
No. 0174-00, 0177-00
タイトル:モトブシーサイドプラザ起工式 1
撮影者:富盛貞夫(Sadao Tomimori)撮影メディア : 8mm Film/Color
本編時間: 2m16s, 3m22s
撮影時期 : 1974年ごろ
主なロケ地 : モトブシーサイドプラザ (沖縄県本部町上本部)
スキャン方式 : Frame by Frame
なんの変哲もない建設工事の起工式の映像です。映像を見ていると「モトブシーサイドプラザ起工式会場 財団法人本部海洋開発協会」と書かれた看板があり、それを手がかりに調べてみました。
ちなみに撮影時期はハッキリしませんが、冬の映像だと思うので1974年暮れから1975年初頭の頃だと思います。
場所はだいたい桃原飛行場跡と聞いていますが、詳細は不明です。
モトブシーサイドプラザは1975年の沖縄海洋博覧会にあわせて、海洋博会場と同じ本部町に建設されたホテルです。しかし、その杜撰な計画ためにオープンするまもなくトラブルに見舞われ倒産。裁判にまでなったホテルです。裁判に関しては以下のリンクに論文があり、PDFで入手可能です。
また季刊「沖縄アルマナック 5号(1980年)」に掲載されている「旅館業の歩み」(大城吉永:沖縄県旅館環境衛生同業組合事務局長)によると、
琉球銀行調査部は、海洋博時における県内の宿泊適性客室数は8400室(約1万7000人収容)と推定し発表したが、宿泊施設の留まることなく、ついに昭和50年6月には34000余名収容の宿泊施設が誕生したのであります。
季刊 『沖縄アルマナック 5』より
つまり海洋博直前には収容人数を遥かに上回る部屋数が誕生していた。1974年には沖縄県旅館環境衛生同業組合は「モトブシーサイドプラザの建設阻止運動も行っていた。
大城氏は同じ記事の中で、このような事態となった前哨戦として、1972年の復帰直後県内のホテル業の推移についても書かれている。なんでも沖縄の日本復帰によって、ホテル業界は黄金時代を迎えていた。既存のホテルも増改築を盛んに行っていた。まさにゴールドラッシュのような状態であった。
モトブシーサイドプラザは、ホテルの建設費などの支払いを、宿泊費で賄う予定であったと言う。今になってみれば危ない綱渡りだが、時代の異様な熱気が判断を誤らせたのだろう。
最悪なことにホテルの工期は遅れ、肝心の海洋博にホテルのオープンは間にあわない。そうなると当然ながら宿泊費などの収入もないので、業者への支払いもできない。焦げ付いた支払いのせいで、連鎖倒産も生れかねない状態に、負のスパイラルを起こして行く。しかたなく、沖縄県もあれやこれやの手を尽くすと…そんな地獄のようなドタバタ劇が展開していった。
この件に関しては、昭和50(1975)年12月15日の沖縄県議会議事録のやり取りを読むと、生々しい時代の雰囲気が伝わってきます。
注目すべきは、上の議事録がまだ海洋博が開催中の1975年12月のものだと言うことでしょう。海洋博は1976年1月までですから、華やかなイベントと同時進行で、すでにこのようなトラブルが、非常に大きな形で起こっていたということです。
また沖縄海洋博終了後は、さらに中小のホテルが潰れたり、大きな会社に吸収されるなど、混とんとした時代となりますが、その辺はまたの機会に。
(文:真喜屋力)
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