【FILMS】八重山の旅

沖縄の日本復帰から間もない八重山への観光旅行の記録映像です。懐かしい街並みも少し映っています。

N0. 0293-00
撮影者 : 匿名
タイトル:八重山の旅

本編時間: 29m54s
主なロケ地 : 竹富島,石垣島 (沖縄県石垣市,竹富町,川平)
撮影メディア : 8mm Film
スキャン方式 : Aerial Image

 

八重山からフィルムが届くことはあまりないのですが、これは沖縄本島から旅行に出かけた人々の旅行記のスタイルでまとめられています。タイトルからクレジットまでしっかりあります。クレジットにある「制作:アサヒプロ」とあるが、これは撮影者が務めていた食品関係の会社からとったもので、そう言う制作会社があるわけではありません。

冒頭は那覇空港の当時の離島便のターミナル。滑走路を歩いてタラップから搭乗するのが時代ですね。しかもプロペラ機。

石垣島に着いた一行は、宿よりも先に「やまて商会」の建物へ。仕事関係の付き合いがあるのかも知れません。

▲建物の形が那覇市民会館を思わせる地元の商店。

その後、川平旅館に着いた一行は、そのまま観光地であり景勝地でもある川平湾へいき海水浴。なんとも気持ちよさげな映像が映ります。

▲景勝地 川平湾を望む。

その後、川で泳いだり、あちこちを回り、商店らしき建物ののまえにある鉄棒で遊んだりと、つらつらと時間を過ごす、のんびりした旅行の映像が続きます。

▲鉄棒で戯れる。

18分58秒ごろから、竹富島の映像になり、最初に喜宝院に併設された喜宝院蒐集館が映ります。

その後竹富島を散策するのですが、気になるのは竹富島観光の水牛車ではなく、トラックの荷台に乗ってまわるところです。水牛車による遊覧が始まったのがいつか?という疑問が涌いてきます。どなたかご存知の方はおられるでしょうか?

» 竹富島 | ウィキペディア

» 喜宝院 | ウィキペディア

▲竹富島の喜宝院。

竹富島観光で印象に残るのは「竹富島のこころ」と題された看板。作ったのは竹富島を生かす会。このボロボロの看板が気になって調べてみたら、作り直されたらしき「竹富島のこころ」の画像が一件見つかりました。

» 竹富島憲章 | 竹富島ウェブログ

上記のリンク先の説明を読むと、「1972年の日本復帰前後から始まる本土資本の土地買占めに対抗すべく起こったまちなみ保存運動」と、この文章は関係があるようだと思ったので、文中に出てくるよく似た名称の団体のホームページを見たところ、その流れがわかりました。

» 竹富島憲章を生かす会とは | 竹富島憲章を生かす会

こちらのページに、その沿革が書かれている部分がこちら。

制定の端緒は、昭和47年の本土復帰を前にして本土からの観光業者、不動産業者が島へ来て土地の買い占めを始めたことにあります。このとき、外部資本により、島の約4分の1にも当たる土地が買い占められたのです。島の人たちは、自ら土地を売っておきながらも、これだけの土地が外部資本の人たちへ買い占められたのに驚き、大きな危機感を持ったのであります。そして、島の将来に対し、これでは大変なことになる、島が死ぬ、自分の生まれ島が生まれ島ではなくなり、外部者によって島が変わってしまう、そして祖先から受け継いだ伝統文化も島の祭事行事も全て自分たちでは出来なくなるのではないかとの不安と、強力な外部資本に全てが巻き込まれていくのではないかとの危機感をもった島の有志たちは、「竹富島を守る会」を結成し、さらに、竹富島を第2のふる里として島を誰よりも愛しておられた随筆家岡部伊都子先生の提言を受け、「竹富島を生かす会」へ名称を変更し、昭和46年、その思いを「竹富島の声」に表し、外部資本による土地の買占めを拒絶する強い意志を表明しました。その後も、幾度となく外部資本による土地の買占めの危機がありましたが、島の人は一致協力してこれを拒み、この島の精神を、島民の総意に基づいて昭和61年3月31日に制定された「竹富島憲章」に結実させたのです。

リゾート開発は様々な思惑が絡み、沖縄が観光立県である限り常に突きつけられる問題です。しかし、島の開発が島民の想いから逸脱した方向に進まないように、考えていかなければならないわけで、この映像からその想いが連綿と続いていたことを実感することは何か意味のあることではないかと感じます。

 

▲竹富島のこころ

 

続いて映像にはホバークラフトが映し出されます。沖縄本島では、1975年の沖縄海洋博の期間、那覇と海洋博会場を結ぶ交通手段として、ホバークラフトと水中翼船が運行して言いました。八重山のホバークラフトが、それよりも古いものだと言うのを今回ウィキペディアを読んで初めて知りました。1972年の復帰のタイミングで、日本政府から譲渡されたんですね。八重山観光フェリーが運用し、石垣島と竹富島、小浜島、西表島、黒島への定期航路として就航していたそうです。水上を浮かんで走るホバークラフトは、深い港を必要としないので、確かに整備の進んでいない離島では役立ちます。就航は1982年まで続いたようです。

▲離島航路を運行していたホバークラフト。

 

» ホバークラフト | ウィキペディア

 

その後、再びカメラは石垣島へと戻ります。70年代の石垣島の街中の様子が数カット映し出されます。

特に印象的な大鷲の彫刻は美崎町公園にある「躍進」の像です。1967年に石垣港の浚渫工事で掘り出された土砂で埋め立てて生れたのが美崎町で、石垣港浚渫記念で作られたのが、この大鷲をかたどった像と言うことです。

その隣にはホテルミヤヒラが映っています。現在も営業しているホテルで、新館も横に建っています。

(文:真喜屋力)

▲美崎町公園の「躍進」の碑とホテルミヤヒラ。

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