【FILMS】RYCOMにて

現在のライカムの元になった琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarters)内とその週辺映像。

No. 0106-01
タイトル:RYCOMにて
撮影者:遠藤保雄(Yasuo Endo)

撮影メディア : 8mm Film/Color/16fps
本編時間: 2m18s
撮影時期 : 1951年
主なロケ地 : ライカム (沖縄県)
スキャン: Frame by Frame

このフィルムは1951年に撮影されたもので、RYCOM(ライカム)と呼ばれる琉球米軍司令部周辺の中と外の映像です。前半がRYCOMのオフィス街で、後半はRYCOMのすぐ下を流れる白比川周辺の映像になります。下の画像でだいたいの位置を確認してみましょう。

ここでイオンモールと区別するため、司令部のあった場所は”RYCOM”と表記します。

RYCOMは丘の上の台地状の土地にありました。三方は崖で囲まれた天然の要塞のような立地です。北側の部分だけが、現在の国道330号線となだらかにつながっていたので、そこがRYCOMの入口となり、この交差点を復帰前からライカム交差点と呼ばれ、その交差点の脇に作られたイオンモールが”沖縄ライカム”と呼ばれるようになったわけです。

▲RYCOMの位置(クリックで拡大)

RYCOMの奥(南側)に行くほど中心部で、北の入口周辺(プラザハウス辺りまで)にはオフィス街が作られていたようで、今回のフィルムの前半はそこで撮影された物です。

RYCOMのオフィス街

8mm  を撮影した遠藤保雄さんが撮影したRYCOMオフィス街のパノラマが下の写真です。

▲コンセットが立ち並ぶ風景(撮影:遠藤保雄)

ライカムのオフィスの映像は前にも当時の写真付きで公開しています。遠藤さんは来沖当初はここで電力インフラを造るためにはたらいていました。こちらは別のフィルムもあるので、興味のある方は下記のリンクからもどうぞ。

» RYCOMのクォンセット・ハット | 沖縄アーカイブ研究所

今回のフィルムは、このオフィス街の記録ですが、冒頭に映る男性は同僚の日系アメリカ人。彼が遠藤さんに8ミリカメラを薦めたのが、遠藤さんの8ミリコレクションの原点でもあります。

撮影地は遠藤さんの達の職場で、このようなカマボコ型のプレハブ事務所です。当時の遠藤さんの職場ですが、宿舎もやはりクォンセット・ハットだったそうです。

▲オフィス内の写真(撮影:遠藤保雄)

 

▲RYCOMのオフィス街。クォンセット・ハットのカマボコ事務所群。

オフィスの外観の次に、唐突にキリストの誕生を描いたジオラマが映ります。上の画像をよく見ると、手前に人形が並んだ木造の小屋が映っていました。意外と大きなものです。クリスマス前の飾り物でしょうか?

▲キリストの生誕を描いたジオラマ。

 

RYCOMの下の集落で釣遊び

フィルムの後半は休日ののんびりとした風景になります。最初の崖のパンショットで、上の方に大きな建物が見えます。これはRYCOMの中にあった将校クラブ(OFFICER’S CLUB)。上の地図にあるように、RYCOMの南の端の崖っぷちにありました(現在はありません)。釣遊びはこの崖の下のほうにある白比川の周辺です。

見上げた画面には、崖の上に墓が幾つも並んでいるのがわかります。

▲左上に見える建物は、RYCOMのオフィサーズクラブ。崖にはお墓が並んでいる。

 

RYCOMの周辺を回り込むような白比川が、後半の釣映像の舞台になっています。沖縄テレビ「沖縄アーカイブ」の取材で、この地域に住んでいた與那覇全恵さん、米子さん夫妻にお話しをお聞きすることができ、映像の細部や背景も聞くことができたので、少しまとめておきます。

白比川にはナービグムイと呼ばれる小さなダムのような場所がありました。映像の最後にトタン屋根の小屋が見えるのですが、與那覇さんによるとRYCOMに水を汲み上げるためのポンプ小屋だったということです。

汲み上げた水に塩素を混ぜるところを見ていたそうで、ひょっとしたら飲料水にも使われていたかもしれません。

 

▲ナービグムイでの釣。子供たちは撮影者の連れではなく近所の子供。

ナービグムイは深くなっているので、男の子たちが樹の上から飛び込んだりして遊び、女の子や小さな子供たちは、もう少し下流の浅い所で遊んでいたそうです。もちろん生活用水としても利用されていました。

 

▲2021年の白比側の渓流。奥には現在もナービグムイに水を溜めるダムが見える。

 

▲白比川のダムを上流から見る(1951年の8mmより)。手前がナービグムイ。

 

▲後ろの小屋は、RYCOMに水を汲み上げるためのポンプ小屋らしい。

 

崖の中腹のお墓

たまたま8ミリ映像に映っていた墓の中に、與那覇家の墓もあったので、近くまで案内していただきました(下の写真)。

洞窟の入口付近だけコンクリートで覆われたもので、形式としては古いタイプ。脇の方には崖のへこみに石垣のような目隠しをしただけの場所もありました。

与那覇ご夫妻によると、昭和の時代でも、死体を墓の中に安置して、数年後に洗骨という儀式も行っていたそうです。

8ミリフィルムでは、かなりの数のお墓が映っていますが、現在は持ち主がいなくなったりして、数が減ってきているようでした。

(文:真喜屋力)

 

▲崖に見えたお墓(2021年)。修繕改築はされているが、横穴式の古いタイプ。

 

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