【FILMS】那覇市のパノラマ1〜外人住宅と若狭海岸

画質良好な那覇市の点描。期せずして戦後の那覇市の住宅事情のカタログのような映像にもなっています。また若狭地域は筆者の地元でもあるので、念入りに検証していきたいと思います。

N0. 1619-01
撮影者 : 山里景吉 (Keikichi Yamazato)
タイトル:那覇市のパノラマ1〜外人住宅と若狭海岸

撮影メディア : 8mm Film/Color
本編時間: 3m21s
撮影時期 : 1971年ごろ
主なロケ地 : 泊,夫婦岩,波上 (沖縄県那覇市)
スキャン方式 : Frame by Frame
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主なロケ地表示(Google Map表示)
泊浄水場ミートジー(夫婦瀬公園)波上水上店舗

 

1)泊浄水場からのパノラマと外人住宅

映像の冒頭は上之屋にある元泊浄水場のあった丘の上。まず泊港から牧志方向へゆっくりとしたパンショット。

▲[画像1] 泊浄水場からの那覇市全景。左手前の赤瓦が外人住宅。
カット変わって、同じ撮影ポイントから背後の外人住宅(現 おもろまち)のパンショットと、那覇市全域を見回すパノラマが映し出されます。撮影は復帰直前の1971年ごろだと思われます。

▲[画像2] 基地内の外人住宅(現 おもろまち)。

この2カットには2種類の外人住宅が映り込んでいます。一つは最初のカットの終り(画像1の左端手前)に写っている赤瓦の住宅で、これは基地の外に作られた住宅公社によるものです。2カット目(画像2)に写る広大な敷地に建つコンクリート製のそれは、見ての通り米軍基地内にある一般的な外人住宅。

外人住宅に関しては、以下のリンク先の論文に、時代背景や、図面、種類な詳細に書かれていますので、興味のある方は御一読をお勧めします。

» 小倉暢之「沖縄の外人住宅に関する研究」 | 琉球大学リポジトリー

同論文によれば、住宅公社が1951〜52年の間に基地の外に外人住宅を288戸を建築。場所は”本島中部の泡瀬、那覇市の松山、泊、上之屋、南部の馬天”に作ったと記されています。また赤瓦の屋根は初期の形態で、太陽熱に強いものの、経費が掛かることや冷房設備の充実にともなってなくなっていったとか。

ちなみに住宅公社は米国軍政府が設立したもので、米国で作られた仕様書を元に沖縄の職人を使って建設を進めており、このことが後の沖縄の建設業界に大きな影響を与えています。。

 

2)ミートジーと若狭市営住宅

野球少年たちと、草の生えた大岩が映し出されます。これはミートジー(夫婦瀬公園で岩は夫婦岩と呼ばれています)。この辺は終戦直後までは海でしたが、1950年代に埋め立てられました。ミートジーのそばには潮渡川と呼ばれる川が流れています。これは埋め立てのさいに作られたもの。70年代中ごろまでは生活排水が流れ込み、ヘドロが沈殿する川でした。ミートジーで野球をすると、たいてい川にボールが落ちるため、補欠の選手やコーチ達が、棒を使って球拾いをするわけですが、その場面もしっかりとフィルムにも映り込んでいます。

▲[画像3] 夫婦瀬公園と若狭市営住宅。
ミートジーの左側に見える三階建てのアパートは若狭市営住宅。1957年11月1日から入居が始まった公営住宅で、アパート4棟(96世帯)と、一戸建てのコンクリート建築の一戸建て154世帯が立ち並ぶ、まさしくニュータウンでした。当時の沖縄タイムスには以下のように書かれていました。

那覇市若狭町埋立地に出現した新しい街。(中略) クリーム、薄みどりに各ブロック毎に塗り分けられたこの新しい一帯は、十一月一日から新生活を始めた。(中略)早くも日用雑貨を並べて店を出す人。貸本屋を始める人もいる。………

沖縄タイムス 1956年11月11日

ちなみに下のリンクから航空写真を見ることができます。アパート4棟が海からの風を遮るように立ち並び、その背後にコンクリート建築の一戸建てが整然と配置されていることがわかります。

» 那覇(航空写真)/若狭市営住宅 | 那覇市歴史博物館

画像2の基地の中の外人住宅と比べると、サイズも小さく、一戸辺りの間隔が相当に詰まっているのですが、フラットな天井やスクエアな感じは、見た目も技術も外人住宅の影響を色濃く受けているのではないかと思えます。

3)若狭海岸と泊港北岸

続いて海岸のパンショット(画像4)が映し出されます。これは若狭海岸から泊港北岸を撮影したもの(地図1)。現在はこの海岸の上を泊大橋が通っているため、このような開けた映像は撮ることができませんね。

正面に見えているのは現在の泊港北岸です。このころは埋立て拡張工事中(地図1の水色部分)で。泊港は今よりずっと小さく。魚市場は泊高橋のすぐ横(現在の親水公園)にありました。

▲[画像4]若狭海岸から見た泊港北岸

▲[地図1]画像3の撮影ポイント。上の水色部分が埋立て中の泊港北岸部分。
このカットの撮影ポイントは上の地図1に示した辺りと思われます。そのヒントはこのカットに続くカット(画像5)にありました。画像4を撮影したあとに振り向いて撮影したと思われるカットです。先の外人住宅の時と同じく、撮影者は同一箇所で前後(左右)の映像を意識的に撮影し、記録を行っていたと思います。

▲[画像5]若狭海岸から波上方向を見る。画像処理で露出を上げると岩積みの感じが見えた。
画像5は動画を若干明るく加工したものですが、積み上げられた岩があるのがわかります。これは若狭二丁目と三丁目の境界あたりで、この岩の場所から海岸に下りることができました。そのシルエットの背後にチラリと見えている岩がユーチヌサチで確か十数メートルほど離れた場所です。

ユーチヌサチとはもともと波上より少し小粒な岩山でしたが、若狭地域の宅地造成のためにダイナマイトで破壊され、その場所がいまの若狭小学校です。現在も岩の先端部分だけが御嶽とともに残されています。

» 雪の崎跡(ユーチヌサチアト) | 那覇市歴史博物館

子供の頃は意識していませんでしたが、積み上げられた岩や、堤防に沿って並べられた消波用の岩も、おそらくユーチヌサチの残骸であり、過去の風景の痕跡だったと言うことなのでしょう。

小桜の塔と旭ケ丘の遊歩道

それから映像は波上へと移動。小桜の塔などの石碑や展望台、遊歩道が映し出されています。この辺りは植物が成長したことと、展望台の屋根が老朽化で取り除かれたことを除けばほとんど変化がないので、検証は続くパノラマカットへ進みます。

波上のバラック

実はこのフィルムで最も注目したのこのカット(画像6)波上の若狭一丁目側の住宅街です。

現在はここも公園となっていますが、当時は波上の岩を取り囲むように、トタン屋根のバラックが隙間なく密集しているのがわかります。都市計画や区画整理をする間もなく、都市の隙間に人々が住み着いた戦後のドサクサともいえる勢いが感じられます。8mmではこういう華やかではない場所が撮影されることはまれなため、貴重な記録と言えるでしょう。

この辺も1980年前後の開発ですべて立ち退きとなり、現在は公園や対馬丸記念館などが建てられており、公共性の高い場所に生まれ変わっています。

▲[画像6]波上の岩に貼り付くようにびっしりと建つトタン屋根の家々。(クリックで拡大)
この場所については、近所に住んでいた同級生が「宮古人のスラム街」と冗談半分で酷い言い方をしていましたが、「沖縄オトナの社会見学R18」仲村清司、藤井誠二、普久原朝充著(亜紀書房)の中でも普久原氏も以下のように紹介しています。

対馬丸記念館から波之上ビーチにかけてバラック小屋の密集住宅地がありました。宮古出身の方が多いと言うことで「宮古部落」と呼ばれていたそうです。

» 「沖縄 オトナの社会見学 R18」(亜紀書房) | amazon.co.jp

 

また、この辺りは東映映画「博徒外人部隊」のロケ地でもあり、「宮古人部落」と呼ばれた風景が映り込んでいることもお知らせしておきます。


▲『博徒外人部隊』の予告。この近所の映像も見られます。

 

波上水上店舗(貸ボート屋)

そして次のカット(画像7)では画像6の左側(海岸部分)にカメラが振られます。そこには圧巻の水上店舗群が映し出されます。水上店舗は写真は多く残っていますが、動画でこれほど鮮明なものはなかなか見ることができませんでした。

ちなみに那覇市で水上店舗と言えば牧志のガーブ川の上に上に作られたものが有名ですが、波上の海岸に作られたこの水上店舗(海上店舗か?)も、かつては有名な行楽地でした。しかし1980年1月22日に起きた火災で全焼し、その全貌は人々の記憶から消えつつあります。現在は波上ビーチとして多くの人々に親しまれています。ただ、このような風景は今ならインスタ映えするポイントとして高く評価されていたかも知れません。

水上店舗の成り立ちについては前述の「沖縄オトナの社会見学R18」に書かれているので、そちらも一読の価値ありです。その本にも書いてありますが、建物は店舗オンリーではなく、住居として暮らしている家族もいました。

▲[画像7]波上の水上店舗群。貸ボートや、バー、ゲーム喫茶のようなことをしていた。(クリックで拡大)

水上店舗は貸ボートや飲食など行楽地として賑わいましたが、時代とともに「不良の溜まり場」などと言われることもあり、実際に麻薬の取り締まりなども行われた新聞記事が残っています。

そして1980年1月22日、おりからの強風に煽られた炎によって水上店舗は全焼します。休日の店舗からの出火で、原因は定かではありません。

現在この場所は砂が持ち込まれて人口ビーチとして人気がありますが、ところどころに水上店舗の柱を立てていた遺構が残っていて往時を忍ばせてくれます。

▲[画像8]現在もビーチの片隅に残る水上店舗の遺構。

波上プール

水上店舗の中にあるプールは、戦前に造られた海水プールで、戦後も修復して利用されていました。

▲[画像9]水上店舗に囲まれた戦前からの波上プール。
下の写真は父親が持っていた1950年の波上プールの写真です。那覇高校の水泳大会の時の写真です。まだ水上店舗もなく、ユーチヌサチが原形を留めているのがわかります。

▲1950年の波上の海水プール。

下の動画「OKINAWA in the 1930’s」には、戦前の同じ場所の風景を見ることができます(1分8秒あたり)。この映像は『南方文化の探究』、『続南方文化の探究 薩南、琉球の島々』等の著作で知られる社会学者の河村只雄が撮影した8ミリフィルムで、沖縄県公文書館でデジタル化した鮮明な映像も見ることができます。


▲河村只雄の撮影した波上プール(1分8秒より)

戦後の沖縄の住宅と言うと、いわゆるツーバイフォーとか、キカクヤーなど、特徴的なものを取り上げがちです。しかし、そこからスタートして、様々なバリエーションが50年代、60年代と展開していったことを意識してみるのもおもしろいものです。このフィルムは、そう言ったことに想いをはせさせてくれるステキな映像と言えます。

(文:真喜屋力)

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