那覇大綱挽が戦後に復活したのは1971年の那覇市制50周年の時だったということが一般的にはいわれているが、実は1961年に那覇市が主催ではない那覇大綱挽が開催されていた。これはその記録です。
No. 0992-00
タイトル:旗頭制作と若狭大通りの那覇大綱挽き
撮影者:島袋昇信(Shoushin Shimabukuro)撮影メディア : 8mm Film/B&W
本編時間: 10m48s
撮影時期 : 1961年10月
主なロケ地 : 若狭大通り,若松問屋街,久米,郵便局 (沖縄県那覇市久米)
スキャン方式 : Frame by Frame
1961年の那覇大綱挽
那覇市の若狭大通りにおいて、大綱挽が行われている写真はいくつか見たことがありました。しかし、前述の通り那覇大綱挽の復活は1971年で、1号線(現 国道58号線)の久茂地交差点を中心に行われたものとされており、若狭大通りの那覇大綱挽は歴史の隅に押し去られていたのです。
1961年の那覇大綱挽を主催したのは、旧市内復興期成会(会長 千原成梧)。
戦争により失われた那覇っ子の域を高めるとともに復興が遅れている旧市内の繁栄を計るとともに、那覇市の発展を促進しようと言うことで二十四年ぶりに行われたものです。
「市民の友 135号」 1961年10月1日付け
とある。那覇市は1954年に首里と小禄、1957年に真和志を編入し、いわゆる「大那覇市」として戦前の那覇とは違う括りになっていた。そのため、1971年の那覇市主催の大綱挽きでは、首里、小禄、真和志も旗頭が新たに作られたもので、現在に通じる那覇大綱挽のスタートとしてはまちがいではない。
逆に言えば、1961年の大綱挽は旧那覇市内が中心となった最後の那覇大綱挽とも言えるのかも知れない。
1961年ごろの時代の映像を見ると、戦前は中心でなかった牧志地区が盛り上がり、旧那覇の地域は後回しになっている感もある。そう言う中で期成会が起こり、旧那覇の心意気をぶつけたのかも知れない。
旗頭の制作
フィルムの冒頭は旗頭の制作風景である。暗くてわかりにくい部分もあるが、手元のアップなど、撮影者の興味のこだわり見えておもしろい。
またミシン仕事や、完成後にお祈りをする場面、家族らしき人々がみんなで旗頭を見上げている様子など、様々な人々の手技や、想いによって、大綱挽きが復活していくワクワク感が伝わってくる。
那覇大綱挽本番
先に紹介した「市民の友135号」によると、このときの那覇の大綱挽の開催は1961年10月8日。1936年の「波の上大祭」に行われて以来、25年ぶりの復活となる。当時の写真は那覇歴史博物館にも収蔵されています。
まずは久米を中心に旗頭が動き出し、若狭大通りや若松問屋街を練り歩き、最後に若狭大通りの、郵便局において綱挽が行われます。
衣装などを見ると、大人でもハチマキ以外は私服、学生なども太鼓隊は学生服で参加しているのが特徴的。
また風景など、現在と比較すると楽しめる。まだまだ撮影場所が未定の場所もあるため,今後の解読を進めたいところです。
中でもわかりやすいのは下の写真にある久米にあった郵政局総合庁舎。復帰後は郵便局となるが、1977年に移転。
この土地は戦前の旧道にも面していたため、道との境界が斜になっている。そのため若狭大通りに面して三画の駐車スペースができあがっている。現在も公園にはその境界線の名残が残されています。
その他にも、若松問屋街など、いくつかのロケ地は探し出すことができます。
(文:真喜屋力)
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