【FILMS】摩文仁の戦跡

沖縄戦の激戦地であった糸満市の摩文仁には、多くの戦跡と、それを弔い平和を祈念するための石碑が建てられています。

N0. 0159-03
撮影者 : 真境名敏夫
本編時間: 5分16秒
主なロケ地 : 摩文仁の丘 (沖縄県糸満市)
撮影時期 : 1970年前半
撮影メディア : 8mm Film
スキャン方式 : スーパーダビング8

第32軍指令部終焉の地

冒頭に映し出される切り立った崖。そこから下に延びるコンクリート製の階段には壕入口と掘られています。その階段を下りたところにあるのが第32軍司令壕です。

▲第32軍指令壕へおりるための階段。

 

» 第32軍(日本軍) | Wikipedia 

» 第32軍司令部終焉の地 | Google マップ

簡単に言うと、第32軍司令部というのは、第二次世界大戦における日本軍の沖縄守備隊総司令部です。もともとは首里城の地下30mにありましたが、1945年5月に首里が陥落し、ここ摩文仁へと撤退しました。その後、6月23日に、この場所で牛島満司令官が自決し、日本軍の沖縄における組織的抵抗は終結したと言われています。

下はの画像は、映像からの抜き出しで、壕の入口付近の映像です。現在は鉄柵で閉じられていますが、このころはまだオープンになっていたことがわかります。

▲第32軍司令部終焉の地(入口付近)

立ち並ぶ慰霊の塔と海岸

▲慰霊塔のパノラマショット1(クリックで拡大)

上の画像は動画の中のパンショットをつないだ物です。クリックするとさらに左右に拾いパノラマ写真で見ることができます。現在の様子とGoogleストリートビューで比較すると、植え込みの木々が生い茂り、まったく別の場所のようです。

» Google ストリートビュー「なにわの塔」

1974年に北海道の慰霊碑が建てられたのを皮切りに、その数は徐々に増え、1965年、66年には建立ラッシュと言えるほどに多くの都道府県別の慰霊碑がたてられました。おそらく戦後二十年の節目ということもあったのでしょう。しかしそれ以前に、何も無い荒れ地だった摩文仁に、さらには米軍統治下にあった沖縄へ、パスポートをとって本土から弔いに来る人が大勢板と言うことが、この建立ラッシュの背景にはあったと言うことは忘れないようにしたいと思います。

さらに映像は摩文仁の海岸を映し出します。多くの人が追いつめられ、この海岸で亡くなられたことを思いながら、撮影者がカメラを向けたように感じられます。石碑もなにも無いのですが、最も雄弁に戦争の悲劇を感じさせる風景です。

 

ひめゆりの塔

 

▲ひめゆりの塔

ひめゆりの塔は最も有名な慰霊碑です。この百合レリーフは画家・彫刻家の玉那覇正吉氏の手による物だそうです。このレリーフ付きの碑は1957年に作られました。撮影されたの1970年代の前半ですから、かなり汚れてきている野がわかります。2009年には大理石で全体を覆い、百合の彫刻の型をとってブロンズ製にした物が、現在の”ひめゆりの塔”になります。

ちなみに1952年の”ひめゆりの塔”は下のリンクで8ミリ映像を見ることができます。

» 【FILMS】ひめゆりの塔 慰霊祭(1952年)| 沖縄アーカイブ研究所

 

沖縄師範健児の塔

▲沖縄師範健児の塔

鉄血勤皇隊として戦争に駆り出されて亡くなった男子学生たちを弔う慰霊碑です。これも第32軍司令壕の近くにあります。前述の”ひめゆりの塔”だけ離れたところにあるのですが、あえて健児の塔と対にするために、編集し直したのかも知れません。

» 沖縄師範健児の塔 | 那覇市

 

慰霊碑の建立に関する資料

最後に、慰霊碑について興味深い資料があったのでリンクを貼って起きます。

» 沖縄の各都道府県別の慰霊塔・碑の特徴〜テキストマイニングによる分析 いとうたけひこ・宮崎郁江・杉田明宏

慰霊碑に添えられた碑文などの文字をテキストマイニングで分析した論文です。テキストマイニングとは文章の中から繰り返し登場する文字をマイニング(発掘)して、分析をしていく学問です。その内容も読み物として興味深いのですが、あわせて様々な資料が添付されています。慰霊碑がいつごろどのように建てられたのか?そのことに対する世間の声、評価など、参考資料として読んでみてはどうでしょうか。
(文:真喜屋力)
▲パノラマ画像2 摩文仁に立ち並ぶ慰霊の碑。

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