【FILMS】1950年の国際通りとマチグヮー〜ハワイからの帰省〜

ハワイ移民が戦後に里帰りをして撮影した1950年の沖縄の繁華街の映像です。

No. 1946-08
タイトル:1950年の国際通りとマチヤーグヮー〜ハワイからの帰省〜
撮影者:上原亀千代(Kamechiyo Uehara)

撮影メディア : VHS/Color/16fps
本編時間: 2m39s
撮影時期 : 1950年3月
主なロケ地 : 国際通り、市場 (沖縄県那覇市牧志)
スキャン: Screen Process

アーニーパイル国際劇場

冒頭に映るのは、国際通りの名前の由来となったと言われる「アーニーパイル国際劇場(以下「国際劇場」)」の動画です。那覇の活気を作った有名な娯楽施設でありながら、この時代の動画はあまりありません。国際劇場の右側にあるのが「那覇無尽」で、これは国際劇場の経営者である高良一が作った無尽会社。のちに「沖縄第一相互銀行」と発展し、その後「沖縄相互銀行」と合併して「沖縄相互銀行」。そして「海邦銀行」へと成長していくことになります。

一説には映画館があまりに儲かるので、自分でお金を運用するために無尽会社を設立したと言われています。

▲アーニーパイル国際劇と那覇無尽(右)。左側に井筒屋が見える。

この時、国際劇場の看板に掲げられているのは『麗人草』という映画のタイトル。新聞をペラペラとめくると、1950年3月の新聞広告に『麗人草』が3月9日に封切られているのが判明。また奄美大島から”演技座”という劇団が来て興行していたのもこの時期。

» 『麗人草』 | 松竹 公式ページ

▲『麗人草』の看板のアップと、当時の新聞広告。

 

那覇市役所と牧志大通り

国際劇場の次の、馬車で始まるカットは那覇市役所前の映像です。那覇市役所は戦後に壷屋の一角で始まり、場所を点々としながら現在の位置に収まります。この那覇市役所は、後にグランドオリオン(1955年12月〜20002年9月)という映画館が建つ場所で、現在は屋台村が造られています。カメラが左にパンして、最後に見える奥に続く道が国際通りで、安里川に向かって緩い下り坂になっているのがわかります。

馬車の周りを細かく見ると、数台の馬車と、自動車。さらには人力で運ぶための荷車などが写っていて、この場所が交通の要所になっているのがよくわかります。

» 那覇市役所 | 那覇市歴史博物館

1955年に発行された地図「那覇市主要通り商店案内」を見ると、この時すでに「旧市役所」と記されていて、その前の通りの名前が「旧市役所通り」となっていました。現在この道は「グランドオリオン通り」ですが、これもやがて名前を変える日が来るのかも知れません。

また上の地図の国際通りに当たる通りの名前が「牧志大通り」となっています。ただしこの地図の他のページでは「牧志大通り」のそばに小さく「国際大通り」という名前が付加されており、名称変更の端境期が、この地図の作られた1955年ごろだったのがわかります。

またこのころ国際通りは”通り会”ごとにいくつか分かれており、この名称はむつみ橋交差点から安里川の蔡温橋までの名称。川の向こう側(蔡温橋から安里三差路まで)は、当時は真和志村の管轄になります。

那覇市の戦後の地名については、下記の論文にいろいろ書かれていて興味深く読めました。

 

マチグヮーの風景とガーブ川

続いてカメラはおそらく平和通りから、現在の公設市場へと続くマチグヮーに降りていきます。長めのパンショットで映し出されるのは「合資会社マルナカ商店」と看板が読めます。

▲平和通りにあった「合資会社マルナカ商店」前。左隣りが「パリー美容院」

那覇市歴史博物館の「平和通り中心部」という写真を見ると、このマルナカ商店の写真を見ることができる。

» 平和通り中心部 | 那覇市歴史博物館

この那覇市歴史博物館の写真を見ると「マルナカ商店」の左隣の看板が「パリー美容院」とあるが、このパリー美容院は先ほどの地図「那覇市主要通り商店案内1955」の平和通りに記されているので、引っ越していなければ、この国際通り側から平和通りを下って降りきった辺りということになります。

牧志第一公設市場以前

いくつかの市場のお店を写したあと、左にパンする長いショットが登場します。道いっぱいに商品を並べて商いをする女性達。女性達の背後にはガーブ川が映っています。ガーブ川は現在は川の上に水上店舗という三階建ての建物が建ち、暗渠になっています。

このカットの冒頭に左側に見える建物は最初に建てられた公設市場に似ていますが、公設市場がオープンしたのはこの撮影の年の後半ですので、まだ自然発生的な闇市のような状態だったのかも知れません。

また映っている橋は、公設市場と平和通りを結ぶもので、この橋を渡って右側に行くと、食堂花笠の前に出ます。

奥に続く道の先には、天久の丘が見えているのも、当時の那覇市に大きな建物がなかった証拠と言えますね。

画面が少し淡いので、ディティールは見づらいのですが、戦後5年目の沖縄一番の繁華街の熱気が伝わってきます。

文:真喜屋力

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