1950年代後半に山原(沖縄本島北部地域)をドライブした映像。重要な風景が幾つも詰まっている濃密なフィルムです。
No. 0113-05
タイトル:沖縄の思い出 山原ドライブ
撮影者:遠藤保雄(Yasuo Endo)撮影メディア : 8mm Film/Color
本編時間: 13m45s
撮影時期 : 1950年代
主なロケ地 : 沖縄県北部 (沖縄県金武町,宜野座村,東村,大宜味村,国頭村)
スキャン方式 : Aerial Image
金武観音寺
まず最初に映し出されるの金武町にある観音寺。16世紀に日英上人により創建され、1934年に火災により焼失し、1942年に再建された。沖縄戦の戦火をまのがれ、今も戦前の姿を残している。しかし、終戦後に建物を解体して米国に移設、博物館として展示しようという動きもあったと言うから、二つの意味で戦火を逃れた貴重な建物。

金武大川
つづいて一行は大川(ウッカガー)に立ち寄る。1日に1000トンを越える豊富な水が沸き出すと言われ、1992年に金武町の指定文化財に指定されました。
映像でもわかりますが、飲料水から洗濯、水遊びまで生活に密着した湧き水として今も愛されています。
映像ではキラキラと輝く湧き水が印象的に撮られています。

當山久三銅像の台座のみ
金武町屈指の偉人の一人に「移民の父」と呼ばれる當山久三がいます。
彼の銅像は1931年にハワイ移民によって建立されましたが、戦時下の1944年に金属回収令によって撤去されました。その後はしばし台座だけが残されていましたが、1961年に新たに銅像が建立されます。この映像はその「台座のみ」の状態を撮影した希少なカラー映像といえるでしょう。

宜野座高等学校
続いて車は宜野座村を北上します。沿道に宜野座高等学校の看板が見えます。宜野座高校の案内によれば
「昭和21年(1946 年)2 月 11 日 創立 。本校は72年前、戦争で荒れた郷土の復興を目指し、若者の未来を育むため惣慶・福山・古知屋・久志の各学校を統合し、元宜野座国民学校の現在地に宜野座高等学校として創立されました。」
公舎などは映っていないのが残念です。

慶佐次(東村)
美しい福木の並木などを見ながら北上すると、やがて船が浮いている山あいの川に出ます。ここは東村の慶佐次川河口付近(下の地図)。1950年代には船(おそらく山原船)が行き来する美しい川ですが、1970年代には開発のために土砂が流れ込んだという話も聞きます。現在はヒルギ公園が造られた親水施設としても知られています。

東村伊是名沖の山原船
つづいて帆走する山原船に、やや衝撃的な感動に襲われます。現役の山原船の動画はいくつか残されていますが、カラー映像は貴重です。ただ撮影者があまり気にしていないのか、じっくり撮影されていないのが残念。
撮影ポイントは東村の伊是名と言う集落(下記、Googleマップ参照)。山原船から左にパンした時に映る、特徴的な切り通しの道と岩が、現在もほぼそのまま残っています。

▲山原船を撮影した東村伊是名のGoogleマップ。
奥間への交通標識
しばし進むと交通標識が写ります。ここまで沖縄本島の東海岸を北上してきたわけですが、ここから一行は西海岸側に向かうことになります。興味深いのは、標識によると、東海岸を北上する道は「DEAD END(行き止まり)」という記述でしょう。現在は東海岸と西海岸は、ぐるっと海岸近くを回る道がありますが、このころは通れなかったということを教えてくれます。

ゴジラ岩(国頭村)
西海岸に出て、再び海岸線を北上して行きます。座津宇トンネルを抜けたところに映る奇岩が通称「ゴジラ岩」。このフィルムを上映する中で、何人かの方から「ゴジラ岩」という名前を聞いたので、おそらく撮影当時からそう呼ばれていたのだろう。一作目の「ゴジラ」が公開されたのが1954年だから、今以上に「ゴジラ」の名は印象が強かったことだろう。
同じ場所をGoogleストリートビュー(下記参照)で見ると、現在もその痕跡は残っている。道路拡幅のために「ゴジラ」の頭部は削り取られたようだ。今も残っていれば、絶好のインスタ映えポイントになったことだろう。

▲ゴジラ岩の観賞ポイント(Googleストリートビュー)
アス森と水路橋
そこから北上し、 切り立った山から流れ落ちる水や、「もどる道」「茅打ちバンタ」などの名所が映し出される。やがて独特の稜線を描く岩山と、何やら鉄橋のような人工物が見える。岩山は辺戸の集落の裏にある切り立った崖で、アス森(安須森)と呼ばれる特徴的な岩山。琉球開闢神話によれば、アマミキヨが琉球の島々を作った時に最初に手を付けた場所と言われる。断崖絶壁のギリギリのところに安須森御嶽が立っています。
鉄橋のようなものは棚田に水を引くための水路橋。なんとなく巨大建造物に見えるが、実は人一人が歩けるくらいの幅しかない水路。現在は使われていないが、一部は残っているようです。
岩山の稜線の形状とGoogleストリートビューの比較で、撮影ポイントは山のほぼ真北から撮影されている(下記のGoogleマップ参照)ようです。おそらく辺戸岬方向に曲がる直前くらいの位置から撮影したと思われます。旧道の地図をどこかで手に入れたいところです。

▲おおよその撮影ポイント。旧道の位置など史料が必要。
また那覇市歴史博物館デジタルアーカイブにも、1960年のアス森の写真がアップされている。本動画よりは、やや南側からの撮影である。
辺戸岬…なのか?
最後に映し出される鳥居のある岬を見て、遂に沖縄の最北端”辺戸岬”に到着!と、思った人もいたのではないだろうか。私も最初はそう思っていた。しかし、本原稿を執筆しながら冷静になって考えると、辺戸岬に鳥居があったという写真は見たことがない。そこでネットで画像検索をしたところ、やはりそう言う写真は一つも出てこない。
そこでこれ以外のフィルムを思い出した時、崖っぷちに鳥居のたった映像が一つあった。万座毛である。そこで疑惑のフィルムをもう一度見返すと、海の向こうに見覚えのある稜線の陸地が見えた。まちがいない、本部半島の稜線だ。そう山原を北上する本フィルムのラストは、突然沖縄県中部の恩納村の万座毛なのである。ちょっとした罠に引っかかった気分。こういう謎解きもまた、8mmフィルムの醍醐味なのです。
(文:真喜屋力)

googleマップに沖縄に残る「水路遺跡」水路橋の情報を投稿しました。この国頭の宜名真、辺戸付近や安部、金武などの場所にあります。金武の水路橋は見ごたえありますよ。
水路橋を写したショットは、記事の地図で指している位置より南側に進んでいった国道58号線との交点付近に建物がありますが、その辺りから撮っているのではないでしょうか?
これが幹線道路か?と書かれた道路は、国道58号と並行する道路(建物の北側を通っている道路)と思われます。国道58号交点付近より西側の区間は当時と同じ道路形状ですので、写真の道路が車に対して右カーブになる部分は、建物の西側のくの字位置か、建物南東側の国道58号交点付近かしかありません。
1960年代~70年代の国土地理院の航空写真を見るとわかりますが、一番わかり易い1971年の航空写真だとかなり長区間水路を確認できます。(戻る道辺りからぐるりと橋へと繋がっているのも確認できます)その水路をたどると、水路橋のポイントから南東進後、すぐに北向き、さらに北東進に水路がぐるりと回り、現在の国道58号線辺りを通っているのが分かります。
写真の水路も水路橋からぐるりと回ってきているように見えますので。
是非一度現場検証ください。
※Googleマップには国頭村宜名真の水路遺跡(水路橋)も記載されていますが、この水路橋の水路からの分水と思われますね。ここまで大規模な橋まで渡して、どこを水源としてどこを潤していたのかとても興味深いです。琉球で最初の安須森を源とする水を使っていたはずなので。それにしても今は森、かつては畑。時代が進んで大幅に退化したように感じてしまう一枚でした。
昨夜水路橋について投稿しましたが、動画を見ておりませんでした。
動画では、「これが幹線道路か?」と書かれている道路の左側の映像もあります。この内容から、この道路は、「おおよその撮影ポイント」の印位置より南南西側、国道58号線の北側を並行して走る道路と断定できます。
ちょうど印の真南にある建物より北西側で少しだけ道路がくの字に屈折していますが、その南西側の黄色くなっている畑との境目付近が撮影地のはずです。車が止まっているカーブは、このくの字の所です。
動画の最後、自動車どアップの直前に、振り返った先の水路が映っていますが、これは、撮影者が跨いでいた水路が道路の下を潜って、飛び出た先です。Googleマップだと、道路から畑の中に真北方向に(道路に対して斜めに)線のようなものが伸びていますが、それと思われます。最新Googleマップの360°映像だと、道路の両側は植物で何にも見えず、水路の線があるようには全く見えませんが、道路の縁石が水路の所だけ途切れているので分かりやすいかと。
ちなみに2023年撮影のGoogleマップ360°映像だと、この黄色い畑部分境界の水路が草の切れ目から映り込んでいます。
映像の水路橋がかなり遠くに見えますが、距離にすると200メートルないでしょうか。
ぜひ地主さんと交渉して、2025年との比較をしてもらいたいですね。ハブ怖いですが。