【FILMS】大丸パチンコ

開南にあった大丸パチンコの店内、店外の開南交差点付近の映像。開南から壷屋に抜ける道路ができる前の貴重な動画。

No. 1818-05
タイトル:大丸パチンコ
提供者:嘉納勝(Masaru Kanou)

撮影メディア : 8mm Film/Color/16fps
本編時間: 2m33s
撮影時期 : 1970年ごろ
主なロケ地 : 大丸パチンコ (沖縄県那覇市)
スキャン: Frame by Frame

いろいろと珍しい映像。一つは1960年代の沖縄のパチンコ店の店内映像。もう一つは開南交差点の映像だが、こちらは開南から壷屋に抜ける道路が開通前の三差路だったころの珍しい映像です。

冒頭にいきなり映るのは1960年代の大丸パチンコの店内。パチンコに興じる人とパチンコ台の映像。

パチンコ台のシンプルな構造はもちろん、パチンコ玉を一個ずつ投入し、それを手動で打ちだす懐かしい姿。パチンコを連打するのは、その方が玉と玉がぶつかって、より複雑な動きをするために、ポケットに入りやすくなるという技であり、巧い人ほど連打の速度が速いということです。

▲パチンコ台で玉を連打するお客さん。

店内で子どもを抱いているのは店長。現在のパチンコ店はチェーン展開の大型店舗がほとんどだが、この時代は個人経営のパチンコ店が多く、商店街の中や国際通りにもたくさん建っていた。一般のお客も多いが、市場などで働く人々は、あまり遠くにいけないので、仕事の合間にパチンコ店やビリヤードなど、サクッと遊べる場所は息抜きに丁度よかったと言う証言も聞いたことがある。

▲パチンコ店の店長とそのお子さん。個人経営のパチンコ店はアットホーム。

 

▲受付カウンターの後ろには景品らしき「COLGATE歯磨き」が並んでいる。

また証言者の話によると、近所に住んでいる子どもが、パチンコの玉を拾って店内でパチンコをやったりすることもあったらしく、かなり大らかな感覚で遊べる場所であった。ギャンブル性も現在ほど高くなかったという証言もある。

▲大丸パチンコを通りの反対側から撮影。現在のローソンが立っている辺りからの撮影だろう。

大丸パチンコの前身は大丸食堂。1950年代の早い時期に同じ場所に開業していた。開南と言う地域が市場の入口として成長し、なおかつバス停の前という立地のおかげで多いに繁盛したという。

下の写真は沖縄県公文書館にあった1964年2月の開南バス停の写真だが、右側の看板に「DAIMARU」と言う文字、他にも「弁当」なども見えるので、この当時は前身である「大丸食堂」のころだと思われるが、バス待ちの人々で、店も繁盛していたことが伺える。。

▲沖縄県公文書館所蔵 1964年 2月の開南。右上に「DAIMARU」と書かれた看板が見える。

大丸食堂は、沖縄そばや、アイスケーキで大成功し、戦前の那覇市役所跡地に広大な敷地を手に入れて「大丸製氷」を起こす。さらにそこで設けたお金で、牧港に「大丸ボーリングセンター」と、開南の食堂の場所に「大丸パチンコ」が生れた。

またパチンコ店のあとに「ママと赤ちゃんの店 大信商会」が沖映通りから移転してきましたが、大丸グループの大嶺芳雄社長の三男が経営していた会社です。

▲パチンコ店前の大丸グループ大嶺芳雄社長。背後は壷屋向けだが、当時は道路がない。

すぐ上の写真と下の写真は、どちらもパチンコ店の前に立って、壷屋方向を背後に撮影されたもの。

瓦屋根の二階建ての建物が見えますが、看板にはうっすらと「吉田写真館」と言う文字が読めます。

▲パチンコ店前。背後の建物に「吉田写真館】と言う文字。

沖縄県公文書館の写真資料で、1964年の開南交差点を写したものに「吉田写真館」を観ることができます。看板の位置や、建物の形がいっしょなのでまちがいないでしょう。そのすぐ左には「開南会館」。写真の左端には開南のバス停と交番も見えています。この三差路を左折すると浮島通り、右折すると通称”仏壇通り”を抜けて与儀に至ります。

▲沖縄県公文書館所蔵写真。1964年3月1日の開南交差点。開南会館、吉田写真館が見える。

我々が良く知っている開南の交差点は十字路で、正面には壷屋に抜ける道があります。下のGoogleストリートビューの画像を見ると、開南会館の右には吉田写真館ではなく、道路が映っています。1971年のゼンリン地図ではすでに十字路になっているので、1960年代後半にはすでに道路ができていたのでしょう。新しく開通した開南と壷屋を結ぶ、この道路の名前は「新栄通り」。新しく栄えるという意味で命名されたのでしょうか。

ちなみに現在は道路の拡幅工事で開南会館も、大丸パチンコの跡地も更地になっています。

(文:真喜屋力)

追記

「新栄通り」の名称について、ずけらんしんさんより参考資料が送られてきました。

『戦後那覇の都市復興と街路名の生成』加 藤 政 洋

那覇市内の通り名の由来などが書かれた論文ですが、ただ「新栄通り」がここでは現在の「サンライズなは商店街」を指していたり、「新栄橋通り」とも表記されていて、こちらの本文内の新栄通りと同一の道を指しているわけではないようです。サンライズなは商店街は、開南から続く商店街で、下の画像の開南会館の左側にアーケードの入口が見えています。

1971年のゼンリン地図では、吉田写真館側が「新栄通り」と表記されています。こちらも現在は「開南せせらぎ通り」と名前が変わっているため、古い地図をひっくり返さないと、名称についての裏取りができないので。いずれまた追記を書きたいとお思います。

▲Googleストリートビューより(2020年頃の風景)。吉田写真館の場所が道路になっている。

 

 

1 Comment

  1. 元々はガーブ川と道の交点(太平通りから新天地市場本通りになるところ)に新栄橋があって、それが名前の由来です。なので最初は新栄橋通り。これは自然発生的についた名称だと思います cf. http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/%E7%9C%9F%E5%92%8C%E5%BF%97/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%A9%8B
    (浮島通りも元々は千歳橋通り、国際通り安里側も蔡温橋通り、ひめゆり通りも姫百合橋由来ですので、これはよくある話)

    その後新栄通りに名前が変わり(新栄通り商店街)、さらに1988年からサンサイズなはになっています。

    http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item3/20118
    http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item3/82355

ずけらんしん へ返信する コメントをキャンセル

Your email address will not be published.


*